第194期 #5

知らない世界

 颯太は自分が老人と言われる歳になってかなり楽になっていた。面倒なことはしなくてもよいということは壮年期の終わりには気づいていた。サラリーマンとして出世競争に勝ち残ることは一つの与えられた幸せだから、それに追従する者が多いのだ。要はわかりやすい物語なのだ。自分の横で、後ろで、脱落、ドロップアウトしていく同僚・先輩・後輩たち、また、家庭環境に恵まれなかったりして、社会的にディスアドバンテージを背負ってしまった友人やその家族をみて、それらを一面的に不幸だと考えた時期は過ぎた。その後にそれら、自分を偶然にも襲わなかった不幸に少しの羨望を感じ、酸っぱいぶどうのたとえを思い出して自らを奮い立たせ、しかる後に自分が持っているぶどうも酸っぱいことに気づく。日日は自分へ問いを投げかけ、それに答えなくてもよいと心底思えるようになったとき、颯太は自分が歳を取ったのだと知った。気づいたらもうぶどうなどには見向きもせず、しかし颯太はその経験から、放っておけばそのぶどうは発酵してワインになることを知っている。「振り返って恥ずかしくない人生を」「自分史に残るように」とはいえ、結局は、最期のときにいかに自分に酔えることができるかが肝である、と思っていた。

 含蓄のある味わいだ。自分の思い描いていた老年はまさにこうだったのでは無いか。夕暮れ寄りの昼下がりに南西から差し込む陽にワインを透かせて、颯太はまた一口含み、舌の裏側で味わう。尻の大きな女房はソファで婦人雑誌に夢中で、いちいちその見出しを颯太に読んで聞かせる。

「アルツハイマーはアミロイドβやタウと呼ばれるタンパク質の脳への蓄積が一応の原因とされる」
「そうとも」
「だったらなんか分からないけど、安心よね」
「ああ」

 今更答えるべき問いなど無いと思っていた颯太へ不意に自問。「自意識とは?」この問いに応えられなかったら、颯太は、どこへつれて行かれてしまうのだろう。しかし颯太はその問いを見逃してしまう。ざらついたその問いは二度と自分の目の前に現れないだろう確信がある。

 いつからか颯太は、老人ホームでみんなと音楽に合わせて手を叩いている。長調で裏拍も無いリズムとオルガンの音に合わせ、それぞれの老人の額から髭のように意識のひもが流れ出して互いに交差する、颯太は手を叩きながら幸福な気分に包まれる。意識のひもがこんがらがらないように颯太は祈る。綾をなせ。



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