第193期 #7
それにしても今日は空が青い。太平洋に面したこの街は晴れの日が多く、日本海の冬を知る幸彦はここに越してきた当初面食らったものだった。「白痴のような」と何度か揶揄したことのある空だったが、その青さに救われることも多々あった。歩道橋の上で、幸彦はもうずいぶんと長い間空を見ている。
歩道橋を昇ってくる女性の姿があった。紺色のリクルートスーツに身を包んだ女は幸彦より若かった。ヒールの高い音が下を走る車の音の合間を縫って幸彦の耳に届く。幸彦のそばを通るとき、風が吹き、女の髪を乱した。女は迷惑そうに眉をしかめて髪を手で整えた。幸彦はため息をついて女の後姿を見つめていた。
幸彦は女の後姿に「久しぶり」と声をかけた。女は怪訝そうな顔をして振り返ったが、幸彦の顔を認めるや、わけのわからない、といった顔をした。見知らぬ人に声をかけられたことは初めてではなかったが、この悩みを抱えた風貌のやせ男には危なさというより人を不快にする何かがあった。女は少し考えた後その不快さは冬の濡れたシンクにとても似ていることに気付いた。風邪をひくタイプの冷たさを与えるものだ。危なくはないが、あまり近寄るべきではない、そう思うや女は踵を返して目的地に向けて歩みを進めていた。いつしか濡れたシンクのこともすっかり忘れていた。だからほんの二分後、歩道橋を降りた先で幸彦が先回りして待っているのを見ても何も気づかず、少し不快な印象を人に与える男がいるなとしか思わなかった。
肩で息をしながら幸彦はじっとりと背中に汗がにじむのを感じた。歩道橋から飛び降りるような勢いで駆け下りた先で認めた女は赤の他人だった。数年前母親の葬式に来てくれた近所の女子高生だと思ったが改めて見た女の顔にセーラー服を合わせると全く違うことが分かった。その女子高生は母の教え子の一人だったが、母は教師だったというわけではない。そもそも幸彦の母はまだ生きているし、三十二年生きている中で幸彦は葬式に参列したこともない。母は専業主婦だが、時々先生ぶるような口調をすることはある。台所の立ち姿を後ろから見ながら、黒板に何か数式を書き付ける教師の姿を重ねたりもした。
そんな母がもし死んだとすれば悲しいだろうなと幸彦は思った。母が教師だったとして、亡くなったとすれば駆けつける女子生徒はこんな顔だろう、という想像と女の顔は全く違い思わず幸彦は声を上げた。「君の、名前は」