第193期 #5

アイシテル

 月蝕の月の赤い夜のことだった。悟は自宅でひとり飲んだくれていた。というのも、悟には付き合って一年ほどになる茜という歳の離れた若い彼女がいるのだが、折角の週末だというのに急用が入ったということで泊まりの予定をドタキャンされたからだ。
 自虐には鈴がふさわしい。悟はそんな気分からワインの空き瓶にツマミの豆を落としてみたが、いつまで待っても豆が瓶底に落ちる音は響いてこない。瓶の口を覗くと、その中にはまるでジオラマのような夜の町が広がっていた。町の喧騒は遠く、悟の覗く月の穴までは届いてこなかった。

 ひときわ赤く輝く光点がレストランに灯っていた。悟と茜の思い出の店だった。店内には可愛く着飾った茜が若い男と座っていた。二人はテーブルの上でお互いの手を弄びあっていた。店を出た二人を導くように赤信号が連なっていた。その先にはマンションがあり、ある一室が赤く光っていた。室内には女が一人、思い詰めた目を鏡の中の自分に向けていた。
 茜は信号のたびにキスをせがんだ。茜にとって異常な赤信号の連なりは運命の粋な計らいだった。けれど二人がキスを交わす足元には止まれの道路標示があった。道路わきの進入禁止の標識は途中で折れ曲がって塀に食い込んでいた。踏切では遮断機が下り、警笛が鳴り響いていたが、二人はひょいと潜り抜けて笑い合った。茜は警告に気付けない。
 覗き穴から見たフィクションのような世界で茜はキラキラと輝いていた。
 やがて二人は男の自室に到着する。言い合う男女。突き付けた包丁を投げ捨てて出ていく女。男に向けて伸ばした指先を振り払われる茜。ありきたりな修羅場だった。
 その包丁に光点が発生した。茜は迷わず包丁を手にとった。茜が震えながら何かを呟いた。なにしてる、さきにしぬ。声の届かない悟にはそう呟いたように見えた。かみにきけ、茜がそんなような言葉を叫んだ。それから茜は意を決して包丁を自分の腿に突き立てた。鮮血が迸り、窓に飛沫が散った。茜は振り返って空を見上げた。その顔にはやり遂げたような、軽蔑するような、そんな表情が浮かんでいた。

 たいへんなことになった。報復か、介抱か。悟が瓶から目を離すと、花瓶が赤く輝いていることに気が付いた。薔薇が狂い咲いているかのようだった。茜は運命に打ち勝った英雄なのだ。悟が冷蔵庫の扉を開けると目が眩むばかりの光が溢れ出した。とっておきのワインが燦然と輝いていたのだ。



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