第192期 #1

最後の色相

 最初は、空から色が消えた。
 テーブルの上、白いクロスの上に置いた写真立てに、供えた青いアネモネが音を立てた。
 ベランダから見える街並みに、一筋、いつも変わらない川が流れている。川に掛かる橋の上で、人と車と二輪車、交わらぬ車輪が流れ続けている。
 果てぬ日々に枯れたまま、泪は沸くことを忘れていた。彼女との明日は、どこかに閉まっておいたままだ。今は記憶が、愛しくて堪らない。

 アネモネが一つ鳴くと、世界から色が一つ消えた。写真に残る彼女の笑顔も、色が一つずつ消えていく。
 毎朝、二人で煎った最後のブラジルを淹れる。部屋は香りに包まれて、舌の上で苦味を転がす。止まった時の中で、繰り返すことで、いつしか苦味も感じない。

 幾度と訪ねる中で、いつか見たあの国の街並みを思い出す。色の溢れる市場で一枚の絵を買った。部屋の壁に残ったまま、色が欠けた姿を残し、今もそこからこちらを見ている。
 硬い額縁のなか、色彩豊かな大橋と、リオの描く色相を、一つひとつ紐解いて、もう一度、瞼の裏で紡いでいく。

 川から色が消え去って、僕達がすべての色を失っても、いつもと同じ朝がやってくる。
 朝のカップに黒くブラジルが満たされていく。蜜を加えて、苦さの中に甘さが立つ。
 空を空として保とうと、戻らぬ風が流れていく。静かに瞼を閉じる時、ベランダを通り過ぎる風が呟いていく。
 穴が開くほど見つめたと思っていた。写真に一つ種が残っていた。過ぎる日々の先に、迎えられた今日という日を、新しい泪が迎え出た。
 テーブルの上、彼女の写真の中に、消えることなく残っていた。僕を見ていた。気付かなかった。世界の最後に訪れた、美しい生命の色味。薄く赤みを帯びた優しい桃色。写真の中の彼女の爪に、最後の色が残っていた。



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