第188期 #10

渋谷オリンピック

 16年間走り続けた男は、一度もレースで勝ったことがないまま陸上人生を終えた。その理由は男のカニ走りにあった。競技用のピストルが鳴ると、とたんに漫才師がおどけながらカニ歩きするかのごとく、男の顔つきはヘラヘラと崩れ、ひょっとこ顔でペタペタ走るのだ。レースをみている各校の陸上競技部のコーチ、ならびに選手たちは、その無様な状況を無表情でみている。彼ら陸上部員にとって神聖ともいえるレース本番での男の走りは、彼らの怒りを通りこして、無反応となっているのだ。

 男は、練習では走れるのだった。それも、男の本気の走りを一度でも見てしまったならば、惚れ惚れしてしまい、その残像がいつまでも脳裏にのこるような美しいフォームと、激しい動きであった。練習のタイムだけみるならば、男の参考タイムは、当時の日本記録を上回っていた。

 にもかかわらず、本番になると、男はカニになってしまう。脳に問題があるとしか思えなかったが、何度診察をうけてみても異常は認められなかった。しいて理由をあげれば、緊張している、ということだけだった。だがその緊張は数十、数百の試合を経てもとれることはなかった。

 そして大学最後の試合を迎えた。この16年間の日々と、自分の体を思うように動かせない歯がゆさに、レース中でありながらも男は泣いた。だが男の涙は笑顔に変換されていたらしく、ビデオのなかで、男は、叫びにちかい笑い声をあげて踊っていた。泣くことすらできなかったことは男に深い傷を与えた。男は走ることを完全にやめた。

 勤め人となった男はその日、渋谷を歩いていた。すると鳴るはずのないピストルの音が鳴ったのである。たしかに耳の内側に響き渡り、その直後に男のふくらはぎがもりあがった。腕は前にふれる準備ができていた。男はスーツで走り出した。

 その日、渋谷駅前でヤク中の暴力団員が発砲したのだ。一発目は、運良く空にむけられたものだったが、その一発に酔いしれた暴力団員は慄く群衆に狙いを定めて二発目を撃とうとした。引き金がひかれる直前、暴力団員は猛然と走りよってきた男にふきとばされた。

 勿論、あの男だ。運命が邪魔さえしなければ彼は五輪の100メートル走にて、日本人初の金メダル受賞者として報道されていてもおかしくなかった男である。彼は一発目を聞くと100メートル向こうから走ってきた。防犯カメラの分析によれば彼の100メートルタイムは8秒02だった。



Copyright © 2018 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編