第188期 #1

フレーバー

 なんとなくこの人悲しいんだろうな、と、第三者なりに気づいてしまう経験というのは誰しも一度や二度、あると思う。顔色や表情のちょっとしたこわばりなんかに意識を向ければ、その人の悲しみに寄り添うことは意外とたやすい。いや、実はそんなサインが出ていなくても、沈黙や無表情から悲しみを汲み取ることというのは、簡単なのであって、難しいのはその人がうれしい瞬間を捉える方なのだ。人が本当にうれしい瞬間は流れ星のようで、一緒になって笑っていてふと相手が冷めていることはよくある。
 より子さんはとらえどころのない人だった。人との距離の取り方が抜群で、愛想笑いがとても上手。容易に人に真意を悟らせないが、私はより子さんがうれしい時どうなるか知っている。彼女がうれしい時は、しおのポップコーンの匂いがする。とってもわかりやすい。残業でへとへとになって帰ろうと身支度しているより子さんに、課長が「明日まで」と新しく仕事を押しつけた。ほかの課員は「そりゃないんじゃない」という顔をしたが、より子さんがえっ、という顔をしたときに発したしおのポップコーンの匂いを嗅ぎ逃さなかったので、私は安心して退社した、そんなこともあった。
 とても明るくて懐かしい匂い。私の思い込みといわれればそれまでだが、しおのポップコーンの匂いを発している時により子さんがうれしさ以外の感情を感じているなんて、考えられない。はじけて、乾いて、仕事をこなしている横顔を思い出す時には、いつもしおのポップコーンの匂いがあった。

 より子さんの最終出勤日、みんなが口々に「おめでとう」と言って、より子さんも大きなお腹をさすりながらそれに満面の笑顔で答えているのに、私にはしおのポップコーンの匂いがしなくて、とても不思議な感じがした。神妙な顔をして鼻をひくつかせている私がよっぽど悲しんでいる風に見えたのだろう、より子さんは私の手を握って、「あなたにもきっといい人がいるわ」と言ってくれた。父親になる課長は照れくさそうにより子さんを遠くから見ていた。その視線に気づいたとき、むせかえるようなのキャラメルポップコーンの匂いがして、吐きそうになり私は思わず片方の手で口元を押さえた。より子さんは私の手を握る手を強めながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返し、私は吐き気で一刻も早くそこから逃げたくて、首を振り続けるのに、より子さんはいっこうに手を離してくれそうにない。



Copyright © 2018 テックスロー / 編集: 短編