第187期 #3
結婚して5年、妻の家の習慣に合わせて朝食は白米と決まっている。その妻が、食パンしか食べられなくなった。物忘れが増え、情緒不安定になった。先日は、突然、マイホーム購入に踏み切れない私を詰った。今日も妻は悪阻がひどく、醤油の臭いを嗅いで、トイレに駆け込んだ。それでも、不妊治療をしていたときの眉の辺りに漂っていた憂鬱な焦燥感がなくなった分、表情は柔らかくなった。
スマホに妊婦が使うアプリをいれ、食べてはいけない食品や葉酸のサプリメントなどのチェックに余念なく、就寝前には、今この子、親指くらいの大きさなんだよと、と教えてくれた。寝る前に無線ランの電源を切る習慣が加わった。出産に際して必要な費用の算出、産院の選定、自治体の補助から、粉ミルクやベビーカー、おむつなどの必要になる物の書き出し。食パンしか食べない妻のどこにそんなエネルギーが蓄えているのか、不思議なくらい精力的に調べた。
試しに無臭のにんにくを買ってきて、吐いた。下腹が痛いと言う。声をかけることもはばかられ、息を詰めて見守る。わたしはこんなにつらいのに、あんたは何もしてくれないのかと罵られた。肉が捩れ、骨が軋む音を聞いているようだった。妻が妻でなくなる。外的ストレスに起因するのではなく、体内調和の崩壊。身体の内側にある異物は、ごく当たり前に、妻を侵食し、別人にする。
見た目からして妊婦らしくなったころ、悪阻は少し落ち着きを見せたが、今度は腰痛に悩まされはじめた。仰向けで寝ることができず、側臥し何度も寝返りを打ち、夜中にトイレに起きる回数が増えた。そんなある日、妻がダイニングに一人座り、お腹をさすりながら、つぶやいた。妻は寝ている時も無意識にお腹に手を当てる。「ああ、この痛みは、君が与えてくれる希望なんだね」。俯いた拍子に、妻の顔にひと束の髪がかかった。その妻の横顔には、美術館に飾られた芸術品のような凝縮された凄みがあった。峻酷で神聖な美。これほど美しい妻を見たことがなかった。いや、この美しさは妻のものではない。慈愛の母の美しさだった。
生命をつなぐ。妻は、母は、生命の螺旋の奔流と清流にさらわれ、崩れ輝き、生きている。こうして、自分は生まれたのだし、息子はもうすぐ生まれる。
I was born