第186期 #11

Fade Away

 母が死んだ。沈むようにして。私を知るものがなくなったその家で、私は私たちを知る最後の一人になった。私の意識と睡眠中の夢とを隔てるものもなくなった。生きながら死んでいた。痛みもなかった。いつからか家に母が現れるようになった。それは父の知る母でなく祖父の知る母でもなく、叔父の知る母でもないものだった。自分の遺影に線香を上げる母。母は私の記憶の中にある姿のまま永遠に生き続ける。
 夕暮れの光は窓を黄色く濁らせる。その光の影からネズミが現れ、そわそわと部屋を横断する。ネズミはやがて私に辿り着き、眼窩に湧く蛆の一匹をおそるおそる手に取る。私は、蛆たちが仲間の隙間を埋めるようにもぞもぞと這い回り、仲間などはじめからなかったかのように痕跡が消え去ってゆく様を眺めながら黄ばんだ蛆を齧るネズミの瞳越しにそれを見た。
 夕暮れの黄色い光はささくれて黄ばんだ壁にしがみつきながらやがて窓に吸い込まれ、家は闇と沈黙の沼で満たされる。二階に現れ始めた気配、線香を焚く母、車座になって明かりを囲む無言の男たち。ネズミは亡者たちを振り返らない。見つめ合う亡者の瞳は交錯しない。祈りもない。ネズミは死を悼まない。瞳に痛みもない。
 死は家族によって分かち合われ、死者は様々な姿で混ざり合う。遺影に写る萎んだ最期の姿に。黄ばんだアルバムに綴じ込めたはずの迷子の姿に。家族は記憶を語り合うことで死を薄める。行くあてのない死者の意識は語られなかった夢であり、忘れ去られた死者は永遠に死に続ける。
 朝の光が窓を黄色く染め上げ、押し寄せる波のように凝った闇を攫ってゆく。疥癬で黄ばんだネズミは壁の穴から川を目指す。瞳に黄ばんだ光を映しながら水を求める。その途中、朝日の中に仲間たちの面影を見るだろう。そしてやがて川に辿り着き、黄色い水面に映る自分の影に仲間を見るだろう。水を求めるように、仲間を求めるように、ネズミは口をつけるだろう。そして深く水の中へ。ふわふわと揺れる黄ばんだ闇の中で、ネズミは仲間の瞳に映る自分を見るだろう。
 だがいずれ私は立ち上がるだろう。ネズミの後を追って川へと辿り着き、水面にたゆたうネズミの死体を見るだろう。
 ネズミは再び現れる。私たちとともに永遠に死に続ける。ネズミは朝日を受けて黄色く濁った私の瞳の中に映っている自分と私とを不思議そうに見つめる。まるで初めて見るとでもいうような無地の瞳を浮かべて。



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