第180期 #11

川向の喫茶店

 脱サラして川辺に喫茶店を構えて半年が経った。静かな午後、誰も客がいない時に川を眺めている。午後二時十二分。川を隔てて高くそびえる高層ビル群を見やる。少し前までは自分もあの部屋のどこかで、パソコンのディスプレイに向かっていたのだ。
 人間らしい働き方が推奨され、休みを増やしたり、違法残業を取り締まったりが行われた。効率化は仕事からノイズを奪っていき、標準化はAIへの引継書として機能した。パソコンを立ち上げ、いくつかのデータをまとめ上げてレポートする。だんだんとフォーマットが確かになっていき、労働者は判断だけを求められる。判断に迷うときは過去の事例を検索する。過去の事例はすべてAIによってすぐに最適なものが検索できるようになっているが、中にはAIが意図的に間違って混入したものも含まれており、時折人間の判断力を試す。まだまだ、人間がいないとだめだな、とささやかな優越感を覚えさせる。
 それはおかしいのでは、と気づいた者は弾かれた。おかしいな、昨日と同じだけの賢さ、もしくは愚鈍さなのに、今日は仕事が終わってる。それを自身の成長と感じられなければ、弾かれた。ビルの外、川向うに追いやられ、国の保護下で暮らすことになった。

 俺の店は喫茶店だ。大体の客はコーヒーを頼む。ただし俺にはコーヒーを淹れるスキルが備わっていない。インスタントコーヒーにお湯を注ぐことくらいならできる。ただそれを客の前でやると客は顔をしかめるということが分かったので、物陰で作っている。最近は豆を挽くとコーヒーの香りが高くなることに気付いたので、それを試すこともある。注文を受けてまごつく俺を客は見つめる。カップの淵ぎりぎりまで入ったコーヒーを半笑いで俺が運ぶのをじっと待っている。

 「これはなんと原始的な労働の行為だろうね」
 ずっ、と一口コーヒーをすすって老人は呟く。

 「この労働の対価をぜひ目に見える形で提供したいのだが」
 これは禁止事項である。川向の住人は一切の経済活動から身を引かねばならない。が、客の中には一定数こういうオファーをするものがある。その昔、労働がより感情的だったころの世代に多い。そのあしらい方はすでにマニュアル化されており、俺はぎこちない笑顔でこういった。
 「いえ、お代は結構です。お客様の笑顔だけで満足です」

 老人は目をしばたかせると、やがて笑った。



Copyright © 2017 テックスロー / 編集: 短編