第178期 #1
天国によじ登ろうと手首を切った少年がいた。
厚くたれこめた雲の隙間から、柱のように光が降り注いでいた。少年には、それが天国に続く階段のように見えた。
手首を氷水につけ、感覚が無くなるまで冷やした。父がひげ剃りに使うカミソリは、ずしりと重かった。それを手首にあてがい、少年は力をこめた。血を見るのが嫌だったので、目を閉じた。肉が弾ける気配とともに、膝に温かいものがしたたり落ちた。少年は目を閉じたまま意識が薄れていくのを待った。
自分が死ねば誰が泣くか考えてみた。母は泣かないだろう。なぜなら、食事の仕度や洗濯をしながら、「あなたがいなければもっと楽なのに」と口ぐせのように言っているからだ。
父も泣かないだろう。なぜなら、数学のテストで15点をとったとき「お前、一回死ね」と罵倒されたからだ。
クラスメイトたちのことも考えてみたが、少年が死んで涙を流しそうな人間は一人もいなかった。少年は安心して勉強机に顔を埋めた。
気づいた時、少年は窓の外にいた。机に突っ伏して、左腕をだらりと垂らした自分の姿が見えた。手首からはねっとりとしたものがしたたり、床に赤黒く溜まっていた。
少年は宙を泳いで、天国へと続く光の階段を探した。光の階段はすぐ近くに見えた。それを目指して、少年は四肢をばたつかせたが、いくら泳いでも光の階段は近づいてこなかった。というよりも、少年が近づく分だけ光の階段はさらに遠ざかり、その距離はいっこうに縮まらないのだ。
途方にくれた少年は、仕方なく空中を泳いで家に戻ることにした。二階の部屋の窓辺にたどり着くと、部屋では、少年がさっきと同じ姿勢で机に突っ伏していた。母が少年の肩を揺さぶっていた。そしてドアの方に向かって何かを叫んだ。父が飛びこんできた。父も少年を見るなり、何かを叫んだ。
少年は、その光景をぼんやり眺めていた。少年が驚いたのは、父も母も頬を涙で濡らしていたことだ。父も母も狂ったように泣き叫んでいた。
そんなはずはない。そう思った瞬間、少年はバランスを失って墜落した。
目覚めた少年が、ゆっくり机から頭をあげると、そこには涙に濡れた父と母の顔があった。割れていた雲がいつの間にか空を覆い、光の階段は夢のように消えていた。