第176期 #5

観光客らしき青年

 サンダル履きである。
 観光客であろう、明らかにわたしとは違う人種であるのは違いない。こんな場所に、とりたてたものなどない、ごく普通の町に似合わぬ観光客らしき青年は、一種異様にも映るのであるが、それはさておき、つまづいた拍子に足の指を怪我したらしく、右足の親指に血が滲んでいるのが見えた。

 この町にも稀に観光客が訪れることもあった。
 アスファルトが所々めくれた駅前は、あまり広くないだけのロータリーで、その周りには地元住民の車に混ざってタクシーがたまに混在して通る程度、車両がすれ違うのがやっとの道幅、中央の噴水は節水のため昨年から水を出さなくなっているありさま。この町を通る鉄道の駅名が有名な観光地のそれと似た綴りであって、ここへ来るほとんどの観光客は、その有名な観光地と間違えてこの町へ迷い込むのである。

 専業で神社仏閣に奉納する特殊な紙を製造していた。
「幸いわたしの家はすぐ近くですからね」
 ジェスチャーも交え、それでも上手く伝わったかどうか、わたしは青年の手をつかんで、敵意がないことを表す笑顔を作る。
 青年を丸木で作った簡素な椅子へ座らせると、キッチンから水の入ったタライを運んできて、ソデをめくり、スカートの裾をたくし上げ、動きやすい格好を整え、一目散にしゃがんで、青年の足をタライへと引っぱり込む。胸元の開いた衣服から随分と垂れ下がった乳房が見え隠れしているのはなんとなく分かってはいた。別に青年の顔を見た訳ではないが、そういった気配をわたしは敏感に感じ取るほうだ。けれども、そんなことには頓着せず、せっせと青年の足を洗う。必ず煮沸消毒した水しか使用しないのは、近年は上水道の整備も進んで以前のように神経質にならなくとも良くはなったが、一度あたったことのある三十数年前の体験は、今も体から消えることはない。しゃがんだ姿勢のまま、外へ向けた視線の先の空は青である。
 
 青年の言語の発声はわたしの知っている範疇にはなかった。
 少し巻き舌のこもるように空気の抜ける音。感謝の言葉であろうことは何となく想像はついた。わたしは「トンデモゴザイマセン」と、かたことな言葉で返した。
 ただ、おかしなことに、青年は椅子から立ち上がろうとして、膝からがくんと崩れ落ちてしまうのである。怪我はない。単なる立ちくらみであろう。わたしも良く立ちくらみをする。立ち上がるときには少し意識を集中させる。



Copyright © 2017 岩西 健治 / 編集: 短編