第172期 #1
青い服を着た少年が、家の前の細い路で凹んだサッカーボールを転がしている。
その三軒隣の居酒屋は、まだ営業時間になっていないので色あせた廃墟のように見える。
その3 km 向こうの運動公園では、セーラー服を着た女子中学生が年上の男に見守られながらキャッチボールをしている。
そこから3駅分北に行くと、袖にくっついた長く細い髪の毛をつまんで捨てる、私の姿がある。多分これは女の髪の毛だ。いつ引っかかったのだろうか。考えても分かることはないが、思考とはそう簡単に止まったり進んだりするものではない。今はただ無意味に歩を進めるばかりである。
コンビニで一番安いサンドイッチを買って、地下の駐輪場に出向いた。少し埃っぽくなる。
空間が暗くなっていく。
無数の自転車がぎっしりと並び送迎する花道は、中途半端な照明と相まって蠢いているように錯覚しかける。
鞄の中の小銭入れを取り出しかけ、手を突っ込んだまま歩いていた。金銭を、外気に晒さないように。ひしめき合う鉄とアルミから守るように。
しっかりと握る。
自転車を押して受付へ歩いている時、大陸を3つ越えたところの出来事を想っていた。
シカゴ大学にある終末時計は、あと3分のところで針を止めている。しかし、私たちは何をもって世界が終末を迎えるかを知らない。違う、知ることができない…いや、それはそれで。
認められないのだ。
たとえどんな答えが与えられたとしても、全て判るようにはできていない。
種々の啓発本などを読んで、得体の知れない万能感を手に入れたフリーターも。
経営が芳しくなくなってきた、居酒屋の店長も。
介護センターで腰が弱くなった、壮年期の婦人も。
彼等の前にこんな理不尽な時計を置いたら、一体どんな反応をするのか。
きっと逆上し、その短針を掴んで引っ掻き回すだろう。そして時刻を弄くられた世界は、張りぼての平和を誇示し、各地の闇市は一層拡大を広げ、多くの投資家は家を無くし、北海ではクジラの鳴き声が響き渡り、そこから南南西に222km進んだ地点にいる私は、今日の夕飯をどうするか考えあぐねるのだ。豆腐、ひき肉はある。豆板醤が無かったから、帰りに買っておく。今夜は麻婆豆腐。今から帰路につく。
日が落ちた。空間が暗くなる。
時は蠢いている。