第170期 #3

時彦

時彦の母は図書館司書だったので、時彦は幼い頃から本が身近にあり、他の子らより沢山の知識を得ることが出来た。時彦は知識を頭に詰め込むのが好きだったが、知識を得ることそのことよりも、人より多い知識を散弾銃の様に乱射して、相手の意見を潰すことで、人々を啓蒙したぞ万歳、と思うような困った人間なのであった。
時彦の家柄は代々女房を働かせて男はのんのんと過ごすことが許されている。幼い頃より、ろくに外に出ないで書物に囲まれてのんのん暮らし、そのままふらりと死んでいった父親の背中を見て、「俺もああなりたい」と思った時彦は、大学を卒業すると、牛売りの娘を嫁にもらい、のんのんとした生活を送ることに成功した。結婚後はずっと本を雑誌をニュースをみて日々過ごした。
働かないで飯とクソと睡眠だけの暮らしとなると、自分自身、本当に社会の役に立たないクズゴミの様に感じ始め、卑屈になったり鬱になったり世間の目から隠れる様にして生きるものだが、時彦の場合、人々に議論を吹っかけ、無職=悪といった誤った考えを是正し、労働に縛られることの愚かしさと、働かない生活の豊かさを独善的に主張し、うんざりした相手の顔を見ては、「今日も人に新しい価値観を植えることができた、世界平和へと導いているぞ」という満足感に酔いしれるのだ。
言葉の刃で人々をクソ味噌に切り裂き、啓蒙する日々。
そうなると、当然誰にも相手にされなくなる。
往来で「やぁ」と声をかけて話そうとしても、皆がプイと顔を背けてしまう。
12月朔日に行われた芋煮会では完全に人々から避けられ、皆が談笑しながら芋を頬張る中、ひとりぼっちで顔をこわばらせながら仁王立で胸に詰まった芋を茶で流し込んだ。芋が食道を落ちていくのを感じながら、人々に怒りを抱き、自分を悲しんだ。
おや親族も縁遠くなり、友もいない。もはや時彦の行動を批難してくれる人もいなかったし、時彦は耳を傾けるほど素直ではなかった。
牛売りの女房も心を壊し、実家に帰っていった。芋煮会以降、時彦は人と話すことをやめ、人間以外に話しかけるようになっていった。
街路樹に向かって生活保護の現品支給案を話し、一方通行の看板と対峙し原子力発電の推進を語り、空気に対して政教分離の原則について意見した。

橋の下に横たわっている時彦は、もうすっかり年をとっていた。あの日の芋煮会以降、ずっと一人だ。あまり見えなくなった黄ばんだ目玉からは涙がこぼれた。



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