第170期 #1
秋の夜長に訪れる、静謐で豊かな時間が好きだった。
煌々と照らす摩天楼の麓、陰になった住宅街の一角に秋風が吹き溜まった。心地よい寒気が肌を抱く。身体の芯にまで染み渡るかのようなその空気が、時折漠然とした郷愁を抱かせる事があった。
はて、一体何に対して、私は懐かしんでいるのだろうか。排気ガスで塞がれた満天の星を見上げながら、私も又、漠然と思考する。夜との輪郭が曖昧になり、脳髄を軽やかな涼風が揺さぶった。
都会で生まれ育った私は、一度たりとも「故郷」というものを見たことがない。小鮒を釣りしかの川も知らないし、兎を追いしかの山も知らない。ただ私が知っているものと言えば、光化学スモッグの目眩とネオンの偏頭痛だけである。
無知蒙昧な私に、秋風が吹き込んだ。その懐古がどこから湧出しているものなのか、私には判然としない。人並みに山に行くことはあった。海にも行くことはあった。ただ、それだけである。
ベランダに身を預けた私の網膜に映るのは、憮然とした表情を決して崩さないビルディングの密林と、叢雲に隠れた朧月。私の鼻腔に薫るのは、灰皿に残した遺骸の香りと、秋風が運ぶ旧懐。
これは、人間の本能なのだろうか。血潮の奥に隠されたDNAとかいう物が、秋の夜半に共鳴しているのだろうか。
「まあ、いいや」
私は浸る。この悲しみが何なのか、私には分からない。恐らく、この灰の風を浴びた私には決して分かり得ないものなのだろう。
秋の夜。私は時折、こうしてセンチメンタルになる。