第17期 #8

私の二酸化マンガン

 彼女の言葉の遣い方にはいつも感心させられるが、私のことをこれから二酸化マンガンと呼ぶと言われた時にはさすがに面食らった。私は彼女の誕生日のお祝いのために彼女を自宅に招いて料理を作っている最中だった。料理の手伝いを断ると、彼女は最近見たという映画の話を始めて、波瀾万丈なストーリーを詳細に語り、身振り手振りを交えてしばしば長台詞を暗唱してみせた。私はその映画を見ていないのでただ時折相槌を打つことしかできなかった。食事が始まってからもずっと映画の話が続いて、あらかた食べ終えた頃、恋人達はようやくハッピーエンドに漕ぎ着けた。
「ああ、面白かった」
 彼女は大きく息を付いて満足そうに私を見た。
「あたし、喋りっぱなしねえ。きっとあなたは気を悪くしたねえ」
「そんなことないさ」
「あなたがあたしを嫌いになるまで後どれくらいかな。って考えるのよう。どうせそうなるなら今のうちに喋っておくというわけよ」
 私は彼女がまだ私の料理について触れてないことを指摘した。
「おいしかったよ」
「それだけ?」
「うん」
 彼女はちょっと寂しそうな様子になった。
「あたし、わざと、あなたに嫌われるようなこと、してやろうか。そうしたら、あなたに嫌われて、別れた後も、あたしの中には、本当は、あなたに嫌われなかったあたしが残るはずだもの」
 食事を終えてソファに座って寛いだ。けれどもうまい台詞は彼女の専売で、私にできることはせいぜい間抜けな調子で感嘆するくらいだった。
「ぼくは、君のこと、好きだなあ」
「今はそうでも、段々にあたしを嫌いになるんだわ。けれどもあなたは優しい人だから、あたしを嫌いになってもただ黙り込むだけなんだねえ。そんなわけで、あたしは、ちっとも気付かずに壊れたドアみたいにいつまでもバタバタ話し続けるのよう」
 私は思わず含み笑った。彼女は急に息が詰まったみたいにお腹を押さえて俯いた。
「あたしねえ。若い時、ボーイフレンドに拳固で殴られたことがあるのよ。黙れ。って言われたわよ。その時のことを思い出す度、気持ちが落ち込むわ」
「そいつは――ひどい男だね」
「そんなことないよ」
 彼女はムキになったように私を睨んだ。
 私は自然な感じで彼女の肩を抱き寄せた。私は次第に彼女を理解している気がするのだった。
「どこか二人で旅行へ行かないか。一緒に旅行すると本当の人柄がわかるって言うじゃないか」
「あたしの二酸化マンガン」と彼女は言った。



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