第168期 #1
おい。
下ばっか見てたら、頭ぶつけるぞ。
でも、上向いてっと、すっ転ぶだろ。
だから、前見て歩け。
前だけ見て、胸張って歩け。
ほら、まずは顎引けや――。
携帯のバイブレーションに起こされて瞼を開けると、いやに明るい硬質な光が目に入ってきた。今は大体…十三時。下がりかけの白日が、新幹線の分厚い窓ガラスを透過していて、ひどく眩しく感じる。
先程、微睡みの中で淡く響いていた声は、忘れもしない、私がまだ小さかった頃、“叱り屋”だった父のものだった。
その人は、いわば私の育ての父であり、血縁関係は無い。ただ、私が生まれてすぐ、本当の父親が亡くなり、四年経って再婚したのがその人なので、感覚としてはあまり変わらないと思う。
そういう私は今、流れる片田舎の風景を見つめながら、少し高価な線香を撫でつけている。
一ヵ月前のことだ。大きな巌石が無数に転がるレバノンの急流に桟橋をかける工事の担当を任されて、施工中の現地に赴任していた時、そんな父の訃報が届いた。この連絡が届いたのは、実際に父が亡くなって十日ほど経ってからで、様態が急に悪化した、という旨の報告と一緒に届けられた。
昔の父は、厳しいと言えば厳しかった。とにかく大きく見えた。ただ叱っているイメージしか、もはや頭に残っていない。年を取って分かったが、あの人は、父親としての役割を全うしようとして叱ってくれたのだ。
最後に父に会ったのは、二年以上前の、病室での面会だった。父に言わせると、「お前は子供の頃から変わってない」そうだが、かくいう父の表情も、昔と何ら変わりはなかった。変わらないというか、丸く、寂しげな背中が、むしろ小さく思えて――と、そこまで思い出したところで、駅に着いた。
少し歩き、草木が茂った石段を登って、父親の墓石の前にしゃがんでみた。私は表情も変えず、線香にも触らずただじっとしていた。ようやく水をかけて、一つ気付いた。
「名前、長くなったんだな」
本来の目的を済ませ、墓地を抜けたところの暗い石段を下りると、開けた砂利道に出た。
下ばっか見てたら、頭ぶつけるぞ。
でも、上向いてっと、すっ転ぶだろ。
だから、前見て歩け。
分かってるよ、親父。
でも今日は、空でも見ながら歩くことにしよう。
なんだか、肩を並べているような気がするから。
私は遠回りの道を選んだ。
だが、帰りの駅に着くまで、道端の小石に躓くことは、一度もなかった。