第167期 #12
彼女には、噛み癖があった。
飴を渡せば数秒と経たないうちに噛み砕き、棒のアイスを食べれば木の棒をいつまでも噛み、ストローを噛み潰さないことはない。
「何ですぐ、噛むの?」
「なんて言うんだろ、欲求不満、みたいな?」
「それは噛んで満たされるの?」
「満たされる、いや、満たされないね。」
爪を噛んで不安や不満をやりすごす、という話を聞く。だが彼女にそれは当てはまらない。彼女の爪は飾り気こそないが綺麗で健康的、要は噛み跡がない。
「爪は噛まないの?」
「爪は違うね噛みたいと思わない。」
「歯ごたえありそうなのに、なんで?」
しばらく考え込む。そんな彼女は今もアイスの棒を噛んでいた。甘噛みなんてもんじゃなく、顎に力が入っているのが見てわかる。
「……ああそうだ。私は奥歯で噛みたいんだ。」
「奥歯?」
「そう。奥歯で思い切り噛みたい。噛み砕きたい。」
アイスの棒がミシリと音をたてた。
「要は歯がゆいんだ。だから子犬とかが家具の足を噛むの、あれすごいわかる。噛みたい。」
めき、と音をたて二つになった棒を彼女はゴミ箱へと吐き捨てる。まだ噛み足りないように彼女は歯を食いしばった。
「話変わるけど、ちょっと手を貸してくれる?」
「たぶんそれ、話変わってない。」
「大丈夫、痛くないようにするから。噛み砕いたりしないよ。」
「君の噛合力がどれくらいのものか知らないけど、少なくとも木の棒を噛み砕いたうえで提案すべきことじゃないよね。」
「さて、」
がっ、と腕を掴まれ、大した抵抗もできず僕の手は彼女の口の中へと突っ込まれた。ぬろりと舌が掌を這う。いたずらに手を嘗めた後、ぐっと顎に力を入れた。歯が柔らかい掌に食い込む。加減をするように、探るように徐々に力が強くなる。
淫猥な空気も熱っぽさも何もない。ここにはただ手を食むという行為だけがあった。何度か噛み心地を楽しむように噛まれる。出血はしないが歯形は残るだろう。
徐に口から手を引かれるが、未だ手首は掴まれたままだ。
「咀嚼っていうのはさ、愛なんだよ。」
「愛?」
「嘗めて、噛んで、唾液と一緒に飲み込む。そうすれば一つになれる。噛むことこそ、愛だよ。」
「じゃあ君は食べ物も愛してるの?」
「愛してるよ。」
また彼女は僕の手を口に含んだ。奥歯が強く僕の小指を噛んで、ミシリと嫌な音をたてる。
僕はいつか彼女に比喩でもなくなんでもなく食べられてしまうのだろう。
ただ行為に没頭するように彼女は、噛んだ。