第167期 #1
絵の具を滲ませたように。丸めたセロファン紙を広げていくように。
私は視界が紅く染まっていったのを今でも鮮明に覚えている。私の眼球を傷つけた刺々しい枝が見せた、最後の景色だった。
些細な事故で視覚を失った私は妻に代わり、文字通り手探りで家事を行うようになった。
手触りで洗濯物を確かめ、何度も壁面に先端を打ちつけながら掃除機をかける。
火傷の恐れのある炊事は妻が帰ってきてから行うようにしているが、最近は1日の顛末を話しながら私の手元を眺めるばかりになった。
夕方、一段落ついて腰を下ろすと目の前の真っ暗な世界にかつて見ていたはずの光景が重なる。
妻が選んだカーテンや結婚前に私が使っていたポラロイドカメラ、職場の上司が譲ってくれた二人掛けのダイニングテーブル。
たまに位置を取り違えて身体のどこかをぶつけることもあるが、定位置のソファーに座ると闇の中に輪郭を現してくる。
家にいる時間は圧倒的に妻のほうが長かったはずなのに、もはや目をつむっているのと変わらない私の瞼の裏にも焼き付いているようだ。
つい先日まで妻がしていた生活に身を窶しながら、その頃の私自身やそれに取って代わる今の妻に思いを馳せる。
私は一般的に見て、出世を期待される類の人間だった。
決して大きな夢を持っていたわけではなかったが、これだけ必要とされる働きのできる人間であることに喜びを覚えていた。
ものが見えなくなった私は仕事に生かされていた自分が幾人もいたことに気づく。
死んでしまった彼らに涙していることさえも妻に言われるまで知らなかった。
どんなひどい泣き顔だったのだろう。
鏡を映さない私の瞳では確かめようのなかった情のない顔を想像して自嘲気味に笑った頃、鍵の回る音がした。
「ただいま」
「おかえり」
妻は寡黙なわけではないが多くを語ることもない。
「今日何かな」
「揚げ出し豆腐」
聞いておいて何も言わないのはいつものことだが、喜んでいるのは見えなくてもわかる。
「また部長に叱られちゃったよ」
向かいの椅子にドサっと座るとそのままダイニングに突っ伏した。
「これから夕食の並ぶ場所に髪の毛広げないで」
「どうしてわかるの。見えないくせに」
私がこうでなければ妻は働きに出て、不器用な自分と葛藤することはなかった。
それをどう思っているのだろうか。
決して妻は口に出したことはなかったけれど。
「ご飯よそうね」
私が静かに落とした豆腐が、熱くなった油の中でパチパチと音を立てた。