第163期 #16

午前5時

朝5時に起きるようにしてからすこぶる気分がよくなった。仕事は忙しいし、体の疲れもとれてはいない。眠るのが午前2時すぎることもよくある。それでも朝は5時に起きていこうと決めてから生活が変わった。7時までたっぷり2時間つかうことができるのだ。朝活と称して勉強すれば有意義かもしれないが、俺は勉強するつもりはない。どうせ眠ってすぎていく2時間なのだから、堂々と無駄につかおうときめたのである。

問題は起きることができるかである。コツは目覚ましをいくつも部屋に隠すこと。1分間隔で鳴り響く時計を這いつくばって消してまわると最終的にデスクにたどりつくようにした。そのまま着席したらまずバロック音楽のネットラジオをつけるのだ。そして前夜に水をいれておいた電気ポットで湯を沸かし、コーヒーをつくる。

無駄にすごそうと決めた2時間。何をしようかと思って、そうだ、他人の人生を生きてみよう、とあるとき考えた。ノートを5冊準備する。それからWEB上で、自分の興味のある人間を5人、選ぶことにした。誰もが実名匿名で自分の生活を記述し報告している時代である。俺はおもった。ただぼんやり暇つぶしに他人の日記を読むのではなく、その記述に俺自身を没入させてみよう。

簡単なことだ。WEB上の日記を万年筆でノートに書き写していくのである。手書きだと、時間がかかる。コピーペーストとはかかる手間が比較にならない。だが時間をかけて書き写しているあいだ、書いている人の思考をたどることができる。書き手の人生に深く触れることができる。

ある富豪の男性は毎朝5時に起きている。まず彼は台所にたって、コーヒーの生豆を焙煎し、やかんに火をかけ、焼いたばかりのコーヒー豆を挽く。フライパンにバターをのせてプレーンオムレツをつくり、コーヒーと卵の朝食をとるのである。俺は彼の繰り返される日常の記録を書き写しながら、今ごろ実際にどこかの邸宅の台所にひろがる焙煎機の香りをおもう。それから彼の言葉にある「保有スキルが高度かどうかより、スキルが独立しているか」という一文を手を通じて体になじませる。

ある女子大生は今日も秘密の仕事をしてきた。派遣マッサージである。彼女は客とのやりとりを綿密に記述している。仕事は仕事とわりきっている彼女には1人だけ例外客がいて、その相手とは恋愛ギリギリの境界にいる。俺は女装の趣味はない。だが書き写している時間、その女になっている。



Copyright © 2016 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編