第163期 #14
徹夜明けからの今日は、午前までの勤務であった。中央線は朝のラッシュと比較すると随分ざっくりしたものである。座席の向かいには懐かしい顔。他界した父親の顔である。懐かしそうに照れくさそうに目を細める父親はグレーの作業着を着ていた。その褪せた作業着は、車両の中では逆に目立って見える。がんばっとるな、と言った父親の口は動いてはいない。死んでもまだ仕事なのか、わたしは不服だった。
吉祥寺で下車して井の頭公園までを歩く。途中のコンビニで缶ビールを二本買う。昨日と寒暖差のある今日の日差しは、わたしのシャツを張り付かせるほど暖かい。池の見渡せるベンチに座る。ここまで父親との会話はない。けれど、父親との濃厚な意思の疎通は感じていた。
缶ビールを開けると同時に、死んだんだよなぁ、とわたしが最初に口火を切る。あぁ、と父親は短く返事を返してから、母さんも元気そうだな、とどこかで見ていたような口ぶりである。まぁ、天国からかな、とはぐらかす父親の懐かしい匂いは嫌ではない。天国ってあるのか? よう分からん、おまえの考える天国ってのは生きてるものの中にしかない天国だからなぁ、生きていたときに考えていた天国がどんなものだったか俺はもう忘れてしまったよ。だから、今の世界を天国って言うのは暫定だ、それ以外の言葉を俺は知らんから。暫定だ。
白鳥ボートを漕ぐ歓声が聞こえる。学生か、観光客か。あれは観光客で学生だな、暫定ではなくこれは確定だ。死んだ人間と会話しているのは、これは暫定か? 会話しているんだから、これも確定だな。
ベンチの端を蟻が歩く。白鳥ボートの歓声。父親とわたしの間を風が抜ける。歩く蟻をはじき飛ばそうとしたが外して、父親の死んだ理由を思い出そうとする。理由とは変な言い方であるが、いくら考えても思い出せない。病気であったか、事故であったか。
「写真お願いできますか?」
二人連れの観光客がわたしにスマホを差し出す。
飯でも食おうか? わたしの提案に、そうだな、でも、はな子が先だ、と父親は言う。二枚、写真を撮ってから、振り向くと父親はもういない。帰ったか。そう呟くと、父親は事故で死んだのだと強く思い出してしまった。
「ゾウって、ここまで匂うんですね」
スマホを受け取った観光客が笑う。
風が走って、ベンチの上の父親の缶ビールだけが倒れた。わたしは母親に電話したくなったが、まずは、はな子が先である。