第159期 #11

 朝、寝不足で鬱蒼とした意識をかき分けドアを開けると、ちょうど隣の部屋の女が出てきたところだった。二十代半ばくらいで、タイトスカートのスーツを着て長い髪を後ろで一つに結んでいる。半年前に越してきた至って普通のご近所さんだ。ここ数日までは。
 おはようございますと交わす言葉がぎこちない。俺は気まずさに耐えかねて、ぬかるむ階段を駆け下りる。

 夜、電気を消して横になる。ピザ屋のチラシやペットボトル、食べかけの惣菜パン、読みさしの文庫本に埋もれた部屋で、布団の上は唯一不可侵と定められている。一時間以上ごろごろ転がり、ようやく微睡み始めた頃、アパートの薄い壁越しに針のような細い声が刺さった。
 抑えきれず漏れ出る鼻にかかった声。密林の奥、俺は濁った眠りの沼に腰まで浸かって動けない。女は朝と同じスーツ姿で岸に腰かけている。ストッキングの破れた足を広げ、手を股間にあてがって。汗に濡れて貼りついた白いシャツ、はだけた胸元にかかる長い髪。湿った風が渦を巻き、草木が波のように繰り返し葉を震わせる。女が上体をのけぞらせ、一際激しい呻き声を最後に静寂が訪れる。
 これで眠れる。泥沼に沈みこみながら、ずるずると何かが這う音を聞く。女の下半身が蛇に変わっている。てらてら光る鱗。茶色の斑模様が深緑の葉の隙間に見え隠れして、よりいっそう艶かしい。

 週末、終電で帰った俺は着替える気力もなく布団に倒れこんだ。やがて隣からいつもの声が聞こえ始める。しかし疲れもあって、岸辺で女がいくら身をくねらせようが、もうどうでもよかった。夢現で早く潜ってしまいたいと願う。
 突然、人差し指に激痛が走った。ぎゃっと叫んで飛び起きる。反射的に左手を確認しようとして、俺は固まった。
 ほの暗い夜の底で、Tシャツの袖口から出た俺の左腕が、ごみの隙間を縫って部屋を横切り、開いた窓から外に出て、女の住む部屋の方へぐにゃりと曲がっている。すぐにそれをひっつかんで手繰り寄せる。ずるずる、ずるずると。指先に痛みが戻る。続いて柔らかい布の感触。指を擦り合わせるとべっとり濡れているのがわかった。汗が吹き出し血の気が引いてしまって、ただひたすらに腕を手繰ることしかできない。薄い壁の向こうで女が聞き耳を立てている気配がする。手はいくら引っ張っても戻ってこない。その代わりに冷たい指が指に絡みつき、締め上げるように強く掴むと、爪を立てて手の甲に噛みついた。



Copyright © 2015 Y.田中 崖 / 編集: 短編