第159期 #1

銀に光る

 恋は痛みだ。やさしさも嬉しさも僕は知らない。初めて出会ったその日から、彼女の左手の薬指には銀のリングが住んでいた。
 休日なのに制服を着て、ふたりきりの薄暗い現像室で、赤い光に照らされる彼女の横顔を見ている。冷たい現像液に浮かぶ写真。液体の中で僕と彼女の指が軽く触れるたび、心臓が跳ね上がるのに、何でもないふりをした。本当は今すぐ言いたいことがあるのをこらえてそばにいる。
 ふいに境界線を越えた彼女の手が、逃げる僕の手を掴んだ。一瞬だけ視線が絡んで、すぐに僕の方から逸らす。意思を持って腕をつたい、頬を撫でる細い指から、僕は逃げられない。
 視線を外していてもなお、貫くような眼光を全身に感じる。まるで渇望するかのように、彼女は僕の唇に触れるのだ。銀のリングが光るその手で。
 胸が苦しい。埋め尽くされる。なにものにも勝る痛みに。楽しいことなどひとつもないのに、すっかり溺れてしまった僕は、浮き上がることなんてできない恋の底にいる。
 彼女が僕の名前を呼ぶ前に、僕は、幸せになるためにはどうすればいいですか、と尋ねた。彼女は笑って答えた。
「幸せになりたいなんて思わないことね」
 泣いているようでもあったが、それはただ僕の願望だったかもしれない。
 逃げられるはずがない。そう思った。この先何年経っても僕は、彼女の薬指に光る銀のリングに捕らわれたまま、身動きもできないでいるのだろう。今まさに立ち尽くしているように。暗室の中にいるように。忌々しい制服と赤い光に包まれて。
「先生、」
 僕のためらいは彼女の唇に簡単に飲み込まれてしまった。奪われた酸素を取り戻そうと深く息を吸えば、肺いっぱいに流れ込んだ現像液の饐えたにおいを、僕は死ぬまで忘れはしない。



Copyright © 2015 たみ / 編集: 短編