第157期 #19

逆流

 帰宅。靴を脱ぎ捨て鞄を放る。そういえば午後は忙しくて一度も行ってなかった。建てつけの悪いドアを開けて滑りこむ。力任せにノブを引っぱったら、ぎゃっと叫び声をあげて閉まった。
 ふたを上げてジーパンを下ろし、柔らかいカバーで覆われたU字にお尻をのせる。深いため息。水音とともに下半身にじんわり広がる安堵と虚脱。瞼の裏に波が描かれる。生理現象に快感が伴うというのは何で読んだんだっけ。波打ち際でぼんやり考えていると、見えない手に下腹を握り潰された。どっと汗がふき出る。寒気。なぜこの生理現象には快感が伴わないのか。
 ぐったりしながらレバーをひねる。水が流れない。ぎょっとする。やめてくれ、この状態で修理とか頼まれた方も引くだろう。もう一度ひねる、出ない、もう一度。
 ようやくごぼごぼと水が出た。ほっとしたのも束の間、今度は水が溜まったまま流れていかない。何か取ってこようとノブに手をかける。ドアが開かない。体重をかけてもびくともしない。あれか、と思い当たって私がぎゃっと叫びたかった。けれど実際は上昇していく水位を見つめながら、ああ、うう、と馬鹿みたいな呻き声を漏らすことしかできない。八割、ひたひた、もうだめだ。
 慌てふためく私をよそに水は淡々と溢れだし、スリッパを薄赤く染めた。そのまま床に溜まり、さらにかさが増していく。一向に外に出ていく気配がない。便座のふたを閉めてその上に立ち、それでもだめでタンクの上に立つ。蛇口からはとどまることなく水が出続けている。万が一閉じこめられても安心、窓つきトイレ物件を選ばなかったことが悔やまれる。なぜ今まで気づかなかったのかと携帯を取り出すも圏外。壁を叩く。大声で助けを呼ぶ。何度も何度も。私の部屋は砂漠の真ん中にあるんだろうか?
 水面がタンクの上の足を濡らしたあたりで、沈んでいる便器のふたがごとごと震えだした。下から現れたのは真っ赤な小さい手。ゆっくりふたが上がる。中には赤い胎児たちがみっしり詰まっていて、次から次へと逆流してくる。
 生温かい水が腰まで到達し、無数の胎児が私の脚にすがりつく。振り払うこともできず、重くなっていく体が沈まないようじっと耐える。
 ふいに、握りしめていた携帯が震えた。あいつだ。
 もしもし、週末って会える?
 その能天気な声に苛立つ。胸まで浸かりながら私は言う。
 ねえ、殺していい?
 は?
 今すぐあんたを殺して、食べたいんだけど。



Copyright © 2015 Y.田中 崖 / 編集: 短編