第15期 #20
今年は蝉の声を聴かないなあと思っていたら、いきなりマンション中庭の赤松に来て鳴き出した。
蝉って、こういうところがあるんだなあ。まだ鳴かない、まだ鳴かないと、気を持たせておいて、突然鳴き出すなんて。
この日を起点に、蝉は堰を切ったように鳴き出した。数も十匹や二十匹ではなく、百匹も千匹も。蝉の数に比例して、夏も盛んになっていく。
こうなると、集金人の鳴らすブザーも蝉の声だ。
「もしもし」
俺はエアホーンを耳に当てて聞き耳を立てる。
やはり飛び込んできたのは蝉の声。
「何だ、何だ、またも蝉かよ」
「蝉?」
「うん、蝉の声しか聴こえないよ」
「だって、今返事したじゃないですか」
「それはバック。中心に聴こえるのは蝉だよ。蝉、蝉、蝉、分る?」
「分らない。蝉、蝉、としか言ってないよ」
「だから蝉なんだよ!」
「私は蝉じゃない!」
相手は怒った。断然怒って、ますます蝉の声は大きくなっていく。
「ねえ、君。蝉っていうのはねえ、聴こえると思えば聴こえ、聴こえないと思えば、聴こえないんだ。心頭を冷却すれば、火もまた涼し」
「おじさん、それは冷却じゃなく、滅却」
「君にわかりやすく、言ったまでさ」
「いらぬお世話だ、まったくもう。岩にしみいる蝉の声なら、まだいいさ。しかし俺の耳に飛び込んでくるのは、そんなもんじゃねえんだ。びんびん跳ね返る蝉の声なんだ。
ひょっとしてこれは、同じ蝉どもの声じゃねえのかよ。俺は窓から飛び込む蝉どもの声と、エアホーンからくる声と、まったく同じものを聴かされてるんじゃないのかよ」
「私だって、好きで蝉になってるわけじゃありませんよ。帰れば三人の子蝉が待っているんですよ。女房も入れれば、四匹ってことですかね……」
このとき、
「じじじじじじじじ」
蝉の声が、突発的に拡大されて迫ってきた。肉眼には見えないから、これはエアホーンを通してくるものだ。
と、その声は、ふと何かに激突して鳴きやんだ。蝉の絶句。そうとしか言いようがない。すると窓からの声も立ち消えて、まったくの無音の宇宙になっている。
「そういうわけで、お願いしますよ。二箇月分」
俺が財布を手にドアを開けると、集金人の姿はなく、踊場のコンクリートの上に、一匹の油蝉が仰向けになっていた。じっと見つめる目が怖い。