第15期 #18

スタート

 アップと二度目の点呼を済ませ、スタート位置に向かう。フィールドは独特の匂いがして、どうしようもなく緊張する。たぶん、これが高校最後の走りになる。200メートル。でも、だからといって感慨とかはない。緊張はしてるけど。
「おーい!」
 スタンドから声が掛かった。俺を呼んでいる。ハスキーな声。姉貴だ。俺は振り向き、スタンドの姉貴を探す。他のOB達と一緒にいた。からかうような笑みを浮かべている。
「なんだよ!」
 俺はうんざりしたように言い返した。でもこれは儀式だ。本当にうんざりしているわけじゃない。
「あたしより遅かったら足へし折るからな!」
 姉貴は、頑張れ、とは言わない。
「あのなぁ、あんた応援しにきたんじゃないのか?」
「るっせー、クソガキ!」
 憎まれ口の応酬。そのあと笑い合う。
 落ち着いた。俺は再びスタート位置に向かって歩き出した。
『足をへし折る』。そう言う姉貴は事実、足を折って陸上をやめた。スキー旅行のときに転んで折れたんだが、まずい折れ方をした。日常生活に支障はないが、陸上競技のようなことは無理になった。俺が陸上部に入ったのはその後だ。まあいろいろ考え込んだらしい、当時の俺は。
 スタブロ――スターティングブロックに足をかけてダッシュを繰り返す。位置を調整する。そうしていくうちに、また緊張がぶり返してくる。深呼吸。大丈夫、緊張しているのは俺だけじゃない。
 やがてスターターが台に上がる。練習をしていた俺や他の選手が、自分のレーンのスタブロに足をかけていく。
 はあ、と息を吐き、目を瞑る。いつからか俺は想像するようになっていた。それは妄想に近いものだ。
 ――姉貴だ。背後には姉貴がいる。俺と同じようにスタブロに足をかけている。深呼吸。姉貴も緊張している。それでも俺の背中を眺め、からかうような笑みを浮かべている。
「位置について!」
 スターターが叫ぶ。俺は目を開ける。スタートラインの少し内側に指を添える。想像の中の姉貴も、架空のスタートラインを見つめている。
「用意!」
 腰を上げる。腕に体重をかける。際どいバランスの前傾で静止する。両足が緊張する。

「あたしより遅かったら足をへし折る」

 耳元でそう姉貴の声――幻聴が聞こえた。
 怖いな、と俺の口元は笑みを浮かべた。怖い怖い。さあ、必死になって逃げるとしよう。いつものように。
「パン!」と軽い炸裂音。スタートの合図。
 反応した足が、スタブロを蹴る。



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