第147期 #17

銀座、雁坐、仁坐

2011年3月11日、事務所の前の歩道は普段、人通りが少く、たまに夜のウォーターフロントをそぞろ歩きするカップルというよりは年齢差20-30歳の不倫カップルが歩く程度なのでが、帰宅を徒歩で何とか週末を家で過ごそうと家路を急ぐ人々が大量に都心を背に南下していた。吉田はとても歩ける距離ではないため、事務所に残り、同じ帰宅困難者と一夜を明かすのであった。近くのコンビニはまるで昼食の買い出しのように長蛇の行列で、食料が瞬く間に棚から掻っ攫われた。しかし、缶ビール、缶酎ハイなどは残っていたため、これぞとばかり大量購入、ファストフードチェーン店は早々と閉店、煌々と照明を照らす中華料理屋は斯き入れ時と、次から次の客にフル回転、持ち帰りを3品ほど社員に食わすため、持ち帰った。夜10時過ぎ地下鉄が動きだしたとの情報で、帰ったものは1時間ほどして、駅が大混雑であきらめて戻ってきた。その路線に家がある妊婦の社員は事務所に残ることを決断、その子は5月に生まれ健康に問題なく今は3歳半となっている。
吉田は土曜日も泊り、日曜日の夜電車で帰宅、しかし、明日月曜日は電車は運休と原発事故の電力不足と早々と東京電力に協力して運休を決めた。そのため朝4時半、発空港連絡バスで羽田空港へモノレールで折り返すという苦渋の通勤手段を取るしかなかった。
世界各国からの緊急物資の輸送をさばき、被災地への搬送を手配、とても現地の受け入れ態勢が確保できないため、受け取り手のない車両手配を実行するしかなく、軍隊のロジステイックとはこんな後方支援体制を取っているのだなあと感じたのでした。
しかし、18日からはスイスジュネーブへ会議のために出張しなければならないとこれまた日本の都合で不参加をするわけにもいかず、国際会議とはそういうものだと、上司に諭されることもあった。
予定通りに出張、成田空港へ羽田空港からたどり着くが、スイス航空は緊急事態に、日本線のクルーを日本-香港の往復体制とし、スイスからのクルーは香港の折り返し、直行便がクルー交代の香港乗り換え便になり、乗客は乗ったまま、クルーが代わるという、放射能対応の危険手当を出す緊急体制で1か月ほど乗り切るとの事。18時間かかってジュネーブ空港に到着。原発事故の報道はCNNなどで現地のホテルで受ける、日本のインターネットニュースは日本の孤立を伝え、吉田は日本に帰れるか不安の中にいた。



Copyright © 2014 Gene Yosh (吉田 仁) / 編集: 短編