第142期 #16
紙屑の見当たらない小奇麗な、花壇と、幅のあるブロックの道は、緩い下り坂となって伸びていた。視線が掴みえるその先には、駅と隣にある踏切と、踏切の上を渡る歩道橋があった。僕の居場所は、梅雨明けの、踏切まで続く、向こうへ行くだけの交わらない道の上。伸びる空は帯のようで、綿を丸めた雲が糊でとめられたように浮いていた。
母親に見えない程若い笑顔の、横顔を見せる女が、僕の前の道の上で三児の子供を連れて歩いていた。一人で生んで、育てゆく三つの子供達。駆け降りても駅は近づかなかった。空も、そのままに動かなかった。
風の如く。駆け下りる速さの、とどまる手前で、勢いのままに、その女を後ろから、強く抱きしめた。突然のことに、芯は硬直していたが、腕の中で締め付けられた彼女の体は、柔らかかった。
以後彼女は一人じゃない、僕も子育てを手伝った。彼女の夫と、子供達の父親の二役。それがその時からの僕の人生だった。
走り回る子供達。この道の上で、僕達夫婦は二人で、写真を撮ったことがなかった。道沿いに並ぶ店を覗いても、窓ガラスに映るのは子供達だけ。ガラスは僕達二人を映さなかった。何も僕達の姿を映すことはできなかった。
ここまで歩んできた人生は、僕のほうが短かった。若い僕が先導した。奏でる右手と左手のメロディライン。リストの途切れることなく、次へ、次へと。
僕より彼女が訊いてきた。これまでどんな人と付き合ってきたの、と。蟠(わだかま)るような過去はなかったから、「無い」が答えだった。
成長した子供達は、別々に自分の道を歩んでいった。二人の間で時は流れず、僕達は歳を取らなかった。お互いの、何も変わらない顔と、愛。
この道の伸びつく最後。近づいてきた歩道橋と踏切。駅では電車が出発を待っていた。
子供達が巣立った今、その裁断を受けようか。
木の葉の舞う、駅の隣にある喫茶店。甕(かめ)の縁まで達した水面、風がさざなみを起こしている。木目を基調とした店内。シンプルで白い、四枚の羽が回っている。本棚には辞書と時刻表。これまでここで何人が開いて見たのだろう。言葉は意味を慎重に、これからの目的地を探そうか。店内に流れる、サロン調のピアノの曲は、愛の夢。
二人向かい合って、珈琲を一つ口にした。それから僕は云った。
「これからも、愛したい限り、愛せばいいさ」
女は答えた。
「愛したい限り愛しても、そんなには、続かないものよ」