第137期 #3
トントントンという、母が包丁とまな板で、規則正しいリズムを奏でる。
私は明日、夫の家に入り、この家から出る。
台所から母が呼びかけてきた。
「これを食べてみて」
母はそう言って、キャベツの千切りを箸で一掴みした。
「キャベツの千切りを?味見?」
「まぁ、いいから、食べてみなさい」
そう言われて私は、千切りキャベツを口に頬張った。
「味はする?ほんの少しだけど、甘みがあるのは分かるかしら?」
「甘み?野菜の味しかしないけど」
「じゃあもう一回食べて見て。今度は目を閉じて、ゆっくり何度も噛んでみて」
そういって母は、また箸でキャベツの千切りを箸でつまんだ。私は、またキャベツを口に入れると、言われた通りに目を閉じて、何度も噛んだ。目を閉じて、キャベツの味に集中すると、確かにほんの少しだけれど甘みを感じた。
「ほんのり甘みがあるかな」
「そう、よかったわ。その甘みを覚えておいてね」
「この甘みを?どいうこと?」
「私のお母さんがね、同じことを私に教えてくれたの。幸せを感じることというのは、このキャベツの甘さを感じることに似ているって。羊羹のような甘さではなくて、本当に意識を集中して感じないと分からないくらいの甘さなんだって」
「今は、これ以上にないってくらい幸せいっぱいなんだけれどね。もちろん、お母さん、お父さんと離れるのは寂しいけどね」
「いろいろなことが振りかかってきて、幸福が感じられなくなってしまうということもあるわ。もし自分が幸せか分からなくなってしまったら、この話を思い出してみて。幸せは本当に些細で、すこしの調味料をかけただけで、分からなくなってしまうものなの。幸せを感じることができなくなっても、それは幸せがなくなってしまっているということではないのよ。別の何かの味で、自分自身がその幸せの味を感じられないだけなの」
母は、それだけを言うと、また包丁を握り、キャベツの千切りを続けた。
20年の月日が流れた。
18歳の息子は、明日から独り立ちをする。
とんとんとん、と私はキャベツの千切りをする。
「母さんのとんかつが食べたい」
食べたい料理はないかと聞いたら、その返事が帰ってきた。
とんとんとん。
夫と一緒に育てあげた息子を送り出す。寂しさと、息子を育てあげたという達成感を感じる。
私は千切りしたキャベツを少しだけ摘み、口に運び目を閉じた。
ほんの、ほんの少しだけの甘みが口に広がった。