第135期 #11

午前零時

 二十三時五十七分。夜中。西武新宿線花小金井駅に電車が着く。冬の冷気から逃げるように和子はホームの階段を昇った。残業帰りだった。ひと気はまばら。コンコースをヒールの踵で蹴りつけ改札へ向かう。改札では若い男女が揉めていた。
 男は黒いショルダーバックを下げていた。女は男の肩に掛かるバッグのストラップ部分を握り締め、どうも男が改札の向こうへ行くのを阻んでいる。
 男は、今年から一人暮らしを始めた和子の長男と年齢が近いように見えた。改札を通過する際に視線を男女に滑らせる。会話は聞こえない。
 改札を過ぎた後、和子は振り返った。若い男が帰るのを女は拒否していた。理由は分からない。和子は顛末を見届けたかった。しかし和子はその先で右に曲がり、階段を降り、駅を出、帰宅しなければならない。ためらわずに和子は右に曲がった。

「なぜ女は男を引き留めるのかね」
 中年の男が言った。階段に身を潜め、男女のもつれを眺める男がいた。
 和子は読心されたようで驚いたが、
「さあ」
 と無関心を装い首をかしげた。
 改札で揉めている女が急にしゃがんだ。女の短いスカートが風に膨らむ。
「これだから女は」
 和子は中年を避けて階段を降りた。
「待て。一人だと怪しまれる」中年は和子を振り返った。「しっぽりと不倫中の二人みたいに一緒にいてくれ」
「ほか、あたってください」
 中年は灰色のトレンチコートを着ていた。その中に橙色のスェットパーカーを着ている。ポケットから名刺を取り出して和子に渡した。
「作家だ。日本人の村上春樹、知ってるか?」
「知ってます」
「そうか。俺は村上じゃあない」
「そうですか」
 和子は階段を数歩降りた。中年は喉を低く鳴らして大きく息を吐いた。
「これを見ないで何を見ると言うんだ」
 和子は振り返った。中年は目を剥いていた。充血していた。しばらく目が離せなかった。

「旦那の顔でも見ます」
 和子は中年に言った。階段を降り、駐輪場まで歩いた。
 中年の人相が思い浮かんだ。彼は唇が厚かった。喋ると上唇と下唇の間で唾液が糸を曳いた。その奥に見えた歯は大変な隙っ歯だった。その隙間から得体の知れない物が擦り抜けてきそうな気配があった。名刺は風俗嬢のものだった。「また来てね」と女文字。
 和子は改札まで引き返す。若い男女も中年の男もいなかった。
 空気がいっそう冷えだしたように和子は感じた。差出人不明の敗北感。中年の顔だけが鮮明に脳裏に残った。



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