第132期 #1
カナカナと蜩が鳴き始めても、気温は下がろうとはしなかった。沿道を埋めつくす人の多さに正比例して、さらに上昇しているのかもしれない。この地方の晩夏の風物詩として毎年数万規模の人出で賑わう祭り会場では、大通りを囲むように色とりどりの灯りに照らされた屋台が軒を連ねていた。
男が、女を見掛けたのはほんの一瞬だった。止めどなく滴り落ちる汗を拭おうと、首に巻きつけた手拭いを額にあてようとしたときだ。人違いかもしれない。幾重にも行き交う人々の中で、数メートルも先を歩いていたのだから。だが、男が見間違えるはずがなかった。あの女を忘れるわけがないのだ。
恋は盲目。男は、女のあざとさを見抜けなかった。女の欲しがるものは何でも買い与え、女の行きたいところには何処へでも行った。だから女が妊娠を告げたときは、安堵の気持ちの方が大きかった。ところが、次に女が口にしたのは意外な言葉だった。
「別れましょう。私、結婚するの。この子の父親と」
女は忽然と姿を消した。程なくして、女が男の口座から預金を引き出していたことを知る。やむを得ず会社の金を横領した男は、数年にも及ぶ刑務所暮らしを余儀なくされた。そこで知り合った仲間のつてで、露店商として各地の祭り会場を転々としていたのだ。天板の上で沸々とたぎる油を見つめながら、男は確信していた。女はきっと現れる。もっと、近くに。
男の首に巻きつけてある手拭いはびしょびしょになり、既に汗ふきとしての機能を成していなかった。相も変わらず人の波はとどまる所を知らない。
「三個ちょうだい」
少年は右手に小銭を握りしめ、男の屋台の前に立った。左手では、鮮やかな原色が交差した柄の描かれたヨーヨーをバシャバシャと動かしている。そして、傍らにいたのはーーあの女だった。
この少年があのときの子なのか。そう考えると少年の無邪気な笑顔は、まるで男を嘲笑っているかのようにも見えた。男は俯いたまま、つとめて優しい口調で応えた。
「ちょっと待ってて。燃料が切れそうだから補充するからね」
男は、側にあったガソリンの充満した携行缶のキャップを開けた。すると、炎天下に晒され内圧の高まっていた携行缶から勢いよくガソリンが吹き出し、否応なしに辺り一面に振り撒かれる。「きゃあ!」驚いた女が男を睨みつけると、男はにやりとほくそ笑んだ。次の瞬間、女は断末魔の叫びと共にこうこうと炎につつまれてゆくのだった。