第13期 #15

蝶の蒐集

 夕方、近くの小学校の校舎から次々と蝶が飛び立っていった。幻想的な光景だった。私はいつも持ち歩いている折畳式の虫捕網を広げて懸命に振り回し、なんとか一匹捕まえることができた。アオスジアゲハだった。アオスジアゲハは東洋全域に分布する広域種で、黒色の地色の上の斑列は日の光を浴びて美しい空色に輝く。
 私は自宅の地下室に蒐集した蝶の標本を保管している。そこで猫のように目を見開いて捕まえたばかりのアオスジアゲハを見つめた。
「おじさん……」
 不意に蝶が口を利いたので、私は驚いてピンセットを取り落としそうになった。
「おまえはアゲハなんだよ」
「目を覚まして」
「これは夢なのかね」
「大人たちはみんな眠っているのです」
 蝶は世にも奇妙な物語を語り始めた。この世界には、正義なく愛もない。そして美もない。大人たちは耐えられずみな夢の中に逃げ込んでしまった。
「この国にはいくつもの強制収容所があって、その中も外も、醜い暴力と飢餓に満ちているのです」
「私は美の蒐集家なんだよ」
「ぼくの母を助けてくれますか」
「お母さんがどうしたんだね」
「母は収容所に送られました。母を助けてください。お願いです」
「なぜ私に頼むんだね」
「あなたは収容所の所長です。そして、ぼくのような少年が好きだと。だから……」
 私は部屋の隅の蝶の標本を指さして尋ねた。
「あれはなんだね」
「標本です」
「そうだ、美しいだろう」
 アゲハは沈黙した。
「この国に美がないだって? とんでもない」
「はい、おじさん」
 アゲハは期待を込めて頷いた。
 私は標本用の注射器を取出した。ふと気になってアゲハに「今私は何をしているかね」と訊いてみた。
「おじさんは……ズボンを脱いでいます」
 私はかぶりを振ってアゲハに近付いた。そして美しい羽を傷つけないよう両手で押し開いた。ひくひくと動く柔らかい腹の中心に私の注射器を押し当てた。
「おまえは美しい。美しい私のアゲハだよ」
「痛いです」とアゲハが言った。
「リラックスして」と私は親切心から忠告した。
 私はゆっくり注射器を差し込んだ。
 アゲハが泣き出したので強く窘めた。
「我慢しなさい。お母さんの苦しみを考えてごらん」
「母を助けてくれますか」アゲハがくぐもった声で言った。
「ああ……」と私は唸った。
 私はすでに彼の母親を殺してしまったのだろうか。全く思い出せなかった。ただ美の追求に専心して静かにオールを漕いだ。
 私はすぐに到達した。



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