第122期 #9

ホット、ひとつ

 重い扉をひくと、頭上からカランカランと歓迎の鐘の音。店内からゆうらりと漂ってくる空気が僕を迎える。珈琲の焙煎された香りと軽やかな音楽、さまざまの客がさまざまに置いていった気配。それらが調和した独特の雰囲気に、僕はやわらかに包み込まれる。
 ジャケットを脱いで、スツールの背もたれにたたんでひっかけ、僕はカウンターに着いた。いつのまにか指先を冷やすまでになった外気への対策に、クローゼットの奥から引っ張り出した上着は、暖かなここでは必要ない。
 それでも注文を取りにきた若い店員に自然と口をついて「ホット」と頼んでいた。少し前はアイスだったはずなのに。そのあたりに、確かに忍び寄る寒気を感じずにはいられない。
 カウンターの奥では、店主がドリップ式で珈琲を淹れている。
 粉末になった珈琲豆がドリッパーに静かに納まっていた。
 線の細い、くすんだ赤いエプロンをした店主は、白鳥の首みたいに長い口のポットでそこへ湯を注いだ。
 ふわりと平面だった豆がふくらみ、珈琲の香りが強くなる。
 店主は、なにかを重大なものを逃すまいとしているように伏せ目がちでじっと珈琲豆をみつめている。その目が、獲物を狙う水鳥に見えるのは、彼が持っているポットのせいだ。
 彼は、長い口のポットで少しずつ珈琲豆に湯を注いでゆく。珈琲を淹れている店主は、白鳥を繊細に操って、地面を耕しているみたいだ。
 じっくりと、しっかりとサーバーに出来上がった珈琲がたまる。
 湯が注がれて、珈琲豆にしみこんで、立派な珈琲になる。一連の流れをみていると、水の循環を思わせた。
 雨が降って、地面にしみこんで、最終的に海に出る。

「おまたせしました、ホットコーヒーです」

 カタリと、目の前に出来上がったばかりの海、もとい珈琲が置かれた。
 カップをもちあげて、一口。
 まあ、珈琲の場合、海となったあと水蒸気から雲の発生に至るのではなく、僕に摂取されたあと、

「ふう、おいしい」

 くつろいだため息の発生に至るのである。



Copyright © 2012 末真 / 編集: 短編