第122期 #20
猫は多分本当はマリーという名前なのだけれど、猫の主人は気分でしばしば呼び名を変えた。例えばやわらかい毛がうねる頭部を撫でながら「ふわふわちゃん」と呼んでみたり、遊んで欲しくてじゃれつく猫をあしらいながら「チビ助め」と笑ってみたりする。ただ単に「猫」とだけ呼ばれる時もある。けれども、猫が何より好きなのは主人が自分の事を呼ぶその優しい声の響き自体なので、だから猫はどんな呼び方であっても主人が自分を呼んだ時を間違えた事がない。意図的に無視する事はあったとしてもだ。
猫は主人と二人暮らしだ。猫は完全な室内飼いで飼われているから、外には出してもらえない。主人は危ないからと言う。これには、猫も不満ながら納得しないわけでもない。なぜなら、優秀なバランス感覚を有するとは自負しているものの、猫は完全な盲目である。今でこそ慣れたものの、以前はよく体を柱や家具にぶつけていたものだ。だから不満ながらも、外に行けない代わりにと言って主人が沢山構ってくれるので、まあいいかなと思っている。それにいつでもぽかぽかと温かい部屋の中は最高に快適だ。
猫は猫に珍しく風呂も好きである。「猫のくせに」と言う主人によると、どうやら猫とは本来濡れるのも、大きな音も苦手な生き物の事を言うらしい。けれども猫はシャンプーもドライヤーもへいちゃらだ。とすれば、もしかすると自分は猫ではないのかもしれないと毛をふわっふわにしながら猫は思うけれど、主人が猫というから猫なのだろう。だって主人は猫好きなのだから、愛されている自分は猫である。
猫と主人の別れは、後の話によると、彼らが共に暮らし始めてから三年後の事である。呼び鈴を鳴らし、犯人が玄関先に現れたところで警官隊は突入した。暴れる男をその場で取り押さえている間に、一人がリビングの扉を開けた場所で目隠し具を施された被害者を発見した。不用意な年若い警官がその拘束具を外すと、女は焦点の定まらぬ目で一瞬廊下に組み伏せられた犯人の男の姿を捕らえたかのように思われたが、次の瞬間両目を押さえて絶叫した。その絶叫の凄まじさに全員が息を呑んでいると、やがて女は潰れて何も見えない目を見開き嗄れ切った声で「なぜ、わたしを、こんな、めに」と言い、激しい憎悪を湛えて廊下を睨みつけた後、そのまま絶命したという。なお、その時犯人を取り押さえていた警官は、彼女は間違いなく自分を睨んでいたと証言している。