第120期 #7

涙のあと

「おきないよ!」
 しばらくゆすっても起きない父に飽き、わたしは朝食の支度をしていた母のもとへそのことを報告し、お気に入りのぬいぐるみと一緒にテレビの前へ座った。

(うさぎさんはごはんなんにしましょうか?)
(うん、ぼくはおむすびがいいな)
(おじさんはなんにしますか?)
(わたしもおむすびがいいです。ともこちゃんはなんにする?)
(ともこはつくるかかりだからたべないの!)
(あっ、ママとパパにもきかなくちゃね)
(ママとパパはいそがしそうだからあとにしたほうがいいよ)

 朝食の支度が整い父の様子を見にいった母が慌ただしく動きまわり、電話口で「救急車」と叫んでいたことは今でも鮮明に頭のどこかにあって、ときどきわたしの一部を強く締め付けてくる。
 淡い映像はそこでかき消され、救急車のサイレン音だけが濃厚になっていく。白く大きな扉。揺れるサイレンの赤。

 次に思い出すのは葬儀の風景。
 葬儀場だと思われる建物の中、遺族控え室には人がどんどんと入ってくる。中には知った顔もあったがほとんどの顔は知らないもののようだった。母は静かに動きまわっていて、わたしは知らない叔母さんに面倒を見てもらっている。その人の外見などはまったく覚えていないのだが、知らない膝の中はとても居心地が悪く、わたしは何度も座る姿勢を変えていたようだ。
 これはわたしに見える残像のようなもので確かにわたしの経験からくるものが多分にあるのだが、幼い記憶なので「ようだった」のような表現になってしまう。
 祭壇、きらきらしたもの、人の泣き声、線香の匂い、骨、お経、行列、ののしり、ごちそう、お坊さん、そんな映像が一瞬の閃光となってわたしの心に刻まれる。
 もがき苦しみ、逃れられないものが迫ってくる感じ。わたしは必死で逃げるが、足は宙を蹴るばかりで全然前に進まないでいる。

 そんな朝が何度かあった。
 頬をつたった涙のあとは乾いてつっぱっている。
 夢の中の恐怖は起きたとたんに消え失せてしまい、何に苦しんだのかさえも分からぬ息苦しさだけが残っていた。その息苦しさをかき消すようにわたしはカーテンを開け、朝の陽射しを部屋へ取り込んだ。
 実際、父親はいなかったがそれはわたしが中学のとき母と離婚したからであり、記憶の中のような場面は本当はあり得なかった。



Copyright © 2012 岩西 健治 / 編集: 短編