第120期 #17

『誰がために潤う風』

 何かの帰りを待っている子どもがいる。夜の自家菜園に立ちすくむ影がある。
 彼の髪の弾む毛先が金色に見えるのは傾く月のせいだ。艶やかだが触ればキューティクルが剥げかかり、指に絡まる。もがけば切れ毛になって肩に落ちる。散ったふけすら、月の下で綺麗に映える。
 草の羽ばたく茂みを抜けて、彼は寝間から逃げるようにここに来た。
 狸が出る、薮蚊に刺される、蝙蝠に突っつかれる。悪戯な祖母の吹聴も無駄に終わった。彼は馴染みない田舎の夜を恐れともせず、サンダルが肥やしで汚れようが、シャツに野蒜の髭が引っ付こうが、にべもなく畑地を突き進む。

 この先に海があるよ。
 ――彼は間違っている。
 家宅を囲む茂みの向こうに岩礁が敷かれ、晩夏の夜は特に凪ぐ海。それが臨めるのは南のかの地にある彼の母親の生家だ。八方を吾妻の山並みに鎖されたこの家に潮騒は来ない。
 着いて早々高熱を出し浮かされてもなお、彼は海が海がと唱え続けた。母は彼に誰かの面影を見、茄子の味噌汁を沸かした。眉を顰める彼に、好けなもんは継がんかったか、と目を丸くする母。茄子を箸で避け、汁だけ啜る彼。
 なすびの味が分かんねのは子っこの証だ。椀を下げつつ、老いた母は肩で笑う。

 若い母親が家を出、地上三十階建ての高層マンションの一室に取り残された彼。ビル風に乗り上空までせり上がってくる都会の汚れた空気から彼を守りたかった。離婚調停が進むなか、突然に気管支を病んだ彼を救いたかった。
 彼は徐々に誰かに似てくる。その誰か、もかつては茂みの向こうに海を見ていた。八歳のとき海兵だった父親が蒸発した。船の事故に遭ったとも異国の海で斃れたとも聞いた。父親は誇りだった。数年前に興信所から真実を聞かされて以後、私は潮騒を聞けなくなった。

 名もなき雑草のうえに立ち、波で潤う風を待つ少年がいる。母なる颪に抱かれる少年の背中。彼はまだ潮騒を聞けている。潮騒は別れた妻の呼び声だ。
 私は、彼の誇りになれなかったのか。


 底冷えに堪えかね震える肩を背後から叩かれた。
 おんめ、こんだとこで何しとんだ――
 ――ユウが、あそこに。
 母は私を憂いな目で見つめ、首を振った。
 おるわけねべ、明海さんとこさ引き取られたんだろ――

 妻子に逃げられ独り帰郷したことを思い出すと、母に伴われ、とぼとぼと家宅に戻った。
 口の中に苦々しい茄子の味が蘇る。父親の好物だったらしいそれは未だに好きになれない。



Copyright © 2012 吉川楡井 / 編集: 短編