第120期 #1

彼が彼女に暴力を振るう理由は彼自身にもわかっていなかった。彼女は尚更のことわからなかった。理由だけでなく、いつから、いつまで、始まり、そんなことなんかも二人ともわかっていなかった。だけれど彼も、彼女さえもそれを辛いとか悲しいとは思わなかった。
在り来たりな理由だが、それが愛によって成り立っていると妄信していたからである。

はて、さて、今日は何が気に障って彼は私を転がすように蹴っているのだろう?鈍い痛みの中彼女は考えた。考えても結局、きっかけすらないのだから答えはないのだけれど。彼女は、何度も彼を疑った。本当は彼は私が憎くて暴力を振るうのかもしれないと。だけど毎回、彼は不器用な人間なだけで、彼の歪んだ感情を受け止めることができるのは自分しかいないのかもしれないのだから、と思うと彼を疑う気持ちはいつの間にかなくなっていた。

何故俺は今彼女に怒りをぶつけてるのだろう、彼の頭の妙に冴えた部分が冷静に、まるで後ろから自分を見ているかのように考える。下手するとぽきりと折れてしまいそうな手足、儚く消えていきそうな白い肌、普通の人なら軽く叩くことでさえも躊躇われるような弱々しい雰囲気を持つ彼女を、彼は今足で踏み付けていて、しかし彼は自分が何故そんなことをしているのかわかっていなくて。でも消え入りそうに床に横たわる彼女を見ているとそんな思いも消えていった。

ある日のこと、彼女は、ねえ、と一言彼に話しかけ返事も待たずに彼の上に乗って首を締め始めた。
これが貴方が私にしたこと、私にしたことなの。目に涙をため、震える声で彼女は呟く。
彼の力なら、彼女を押し退けることができたかもしれない。けれど彼はそうしなかった。驚いてそれどころではなかったのもあったけれど、彼は苦しそうにそれでも必死に口を動かし、ごめんな、と言った。確かに言った。彼女がこんなことをするまで思い詰めていたことに対してではなく、まして自分が今までしてきたことに対してでもなく、ただ言わなくてはならないような気がしたから彼はそう言った。彼女は彼の首から手を離し、薄く目を閉じる彼にキスをする。

二人の絆がぷつりと切れる音がした。



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