第12期 #6
今年の七夕は生憎の雨でしたが、私はその日、月にいました。
月の裏側には小さな国がありましてね。
そこの巨大図書館に入り浸りで古代の文献とか読んでたんです。
いえ、ほんとは紙に書かれた挿絵を眺めて来ただけなんですけど。
なにしろ私、日本語しか読めないもので。
絵に縫いこまれた物語の輪郭を追うだけで精一杯です。
穏やかな安息に包まれた国でした。
古い魂の息づきが聞こえる、美しい廃墟なんです。
誰もいない筈の路地裏には残り香が漂っていました。
うら若い娘が髪に振りかけるような香水の香りです。
道向こうの曲がり角、歩き去る誰かの服の裾がひらりと見えることもありました。
幽霊のような恐ろしいものではないのです。
あれはこの国を形作る思い出の姿。
住人たちのいのちが過ぎ去って久しい今も、国自身の懐に抱かれて、大切に温められているのでしょう。
やがて蒼い星が地平から顔を出せば、地上へ帰る頃合いです。
かつての王国に別れを告げ、天の川のさざめく夜空へ向けて小舟を出します。
しばらく帆を進めてからふと振り向くと、月面から打ち上げられてはじけた花火の、色あざやかな閃光が目を射抜きました。
舟のへりから身を乗り出すと、下界に大勢の人だかりが見えました。
彼らはそれぞれ星月草を入れたカンテラを手にぶら下げて、花火の火の粉を浴びながら出店をひやかしています。
しかし賑わいの風景はしんと静まり返っているのです。
口々に喋る声も笑う声も、花火の炸裂する音も無く、まるで無声映画のような光景でした。
すぐに王国の見る夢を目の当たりにしているのだとわかりました。
幾星霜も彼方に行われた星祭りの記憶を。
気が付くと私は何かを叫んでいました。
すると火の見やぐらに登っていた一人の若者がこちらを仰ぎました。
幻影である筈の彼は私を見止めると、こぼれんばかりの笑顔で大きく手を振ったのです。
私は彼にどこかで会ったことがあると思いました。
どこの誰だったか思い出せないまま、私は手を振り返します。
見えなくなるまで、幾度も、幾度も。
やがて月がすっかり遠ざかり、見慣れた地上の山脈が近付いてきた頃、だしぬけにあの若者が誰だかわかりました。
王国の巨大図書館で見た古い書物には、代々の王家一族の挿絵が描かれている箇所がありました。
その中の一人である、国民に最も慕われた王子様が、あの若者とそっくり同じ笑顔で描かれていたのです。
ええ。今年の七夕はこんなふうにして過ごしていました。