第117期 #14
酔いもあって、私と彼の昔話はとめどなく続いた。
「祭りといえば食ってばかりだったな」
「お前だけな。俺は、ああいう食べ物が嫌いだった」
「雰囲気で美味く感じるもんだよ」
「味じゃない。衛生の問題だ」
少し思い出す。そういや彼と彼女は見ているだけだった。
「最近は、ひどくなってきた。スーパーの野菜とかも気になる」
彼は確かにやつれたなと、ぼんやりと思った。そんな風に彼を見ることに何か罪悪感めいたものを感じた。
室内に目を向けると、彼のコレクションが目に入る。彼の後ろの棚には大小様々な缶詰が並べられ、私と彼の座る椅子やローテーブルまで大きな缶詰の形をしている。
「あれ、空気の缶詰か。懐かしいな」
そう言うと、彼は嬉しそうだった。
「缶詰の良いところはモノ自体を保存できることだ。案外、そこにあるというだけで人は満足できるもんなんだよ」
「俺なら、本当に入っているのか、と疑うけど」
「それを信じれるかどうか、だ」
私と彼は少し笑った。それで私の気が緩んだ。
「奥さんは元気か?」
言ってしまってから後悔した。彼は平然と答える。
「ああ、元気にしている」
俺は動揺を抑えて言う。
「半年前かな? 前に会ったのは」
「半年? それはない。少なくとも一年は前だ」
「そうか」
確かに彼女と最後に会ったのは一年前だ。彼と会ったのは数年振りなのに。
もう終わったことだったが、俺は彼から目をそらした。
「シュレディンガーの猫を知ってるか?」
私は彼の突然の話題転換についていけない。
「何?」
「箱の中に猫を入れる。箱には仕組みがあって50%の確率で毒ガスが出る。このとき猫の生死は50%の確率で重なり合っている。誰かが箱を開けるまで」
それが、何だ。
「俺はこれを希望の話だと受け取った」
今更に、彼の目の冷たさに気付く。
「可能性を密閉する。希望はそうやって生まれる。この缶詰には南アルプスの空気が入っている。そう信じれば幸福になれる」
彼の言葉は静かだった。晴れた日の雪原、あるいは教会に差す朝日のように。
「密閉したものは、誰にも干渉されない。変化しない。希望は希望のまま保存される。俺は……俺は、それでいい」
そう言って彼は、愛おしそうに、テーブルを、巨大な棺桶のような缶詰を撫でた。
私は恐ろしい想像に身を強張らせた。
声が震える。
「奥さんは……彼女は、どこにいるんだ」
彼は、視線をゆっくりと私に向けた。そして、人差し指をテーブルに、とん、と置いた。