第115期 #17

サイレン

 低く太い笛の音で目覚めた。
 下着姿だった。脱ぎ捨てたままのジーンズは湿り気を帯びていて、足を通すと腿がひやりとした。アパートの一室から眺める街並みが生ぬるい午後に浸されている。
 薄暗いキッチンに女が立っていた。水色のスカートに白いシャツ。ウェーブのかかった長い髪が濡れて顔に貼り付いている。うっすらと笑みを浮かべ、ひたすらに何かを刻んでいた。
 女の隣では薬缶が蒸気を吐き出しながらけたたましく鳴っている。
「何切ってんの?」
「魚」
「火、止めるよ」
 俺がコンロの火を消すと同時に女が勢いよく包丁を下ろした。まな板の上にはぼってりとした白い腹が横たわっている。胴体から切り離された頭は船員帽を被っていて、握り拳ほどの大きさしかない。
「それなんていう魚?」
 返事はなかった。大きな換気扇がぶおんぶおんと回転し、俺の言葉を外に放り出しているようだった。
 冷たい感触に足を上げる。床に水溜まりができていた。女の足元で雫が滴る。見ればスカートが股間のあたりからびっしょりと濡れていた。俺は思わず顔をしかめたが、次第に頬がむずむずして引きつったような笑みを形作った。
 スカートを掴もうとすると中から石ころのようなものが転がり落ちた。それは口を閉じたアサリだった。やがて大量の二枚貝や巻貝が、泡立つ水と共にばらばら降り出した。生臭いにおいが鼻を突く。
 降り止むと女はようやく俺の方を向いた。切った首を摘み上げて「これ、船長よ」と言う。
「この船はもうすぐ沈むの」
「船?」
 俺は窓の外の光景に目を見張った。広がる黒い海原、ガラスを叩く灰色の波しぶき。背後にあるドアの向こうを大勢の足音が通り過ぎ、悲鳴が上がり、誰かがボートを出せと怒鳴っている。ふいに眩暈に襲われ、部屋が左右に揺れていることに気づく。
「どうして」
「座礁したのよ」
 半ば影に沈んだ女の横顔が、海藻の絡まった岩の塊に見えた。次の瞬間、床が大きく傾き、割れた窓から大量の水が押し寄せて俺を飲み込んだ。

 暗い水の中で女が笑う。足の先で大きな尾びれがひらひらと揺れていた。部屋は跡形もない。換気扇の巨大な羽だけが残って近づいてきていた。俺は女に掴みかかったが、女はしなやかに身をかわし、ふわりと水面へ浮かび上がった。
 歌声を聞いた。入り江に打ち寄せる波のように青く澄んでいて、穏やかで、どこか寂しさを孕んだ声だった。それもすぐに、断末魔のような汽笛にかき消された。



Copyright © 2012 Y.田中 崖 / 編集: 短編