第110期 #9

5時36分

8月初旬、仕事の休みを利用して海へ釣りに出かけた。
今年初めての海だ。場所は伊豆の海。
普段なら海水浴客で賑うが、今日は冴えない天候もあってか人が少なく閑散としていた。

波止場に場所を確保し釣りの仕掛けを用意するや否や雲行きは次第に悪化し、とうとう雨が降り出した。海もしけっている。

自然とため息が出る。


ふと後ろの方を振り返ると船着場の辺りに若干の人だかりが出来ているのが見えた。僕の体は好奇心からなのか、その人だかりに吸い込まれるように近付いて行った。

人々は皆黙って海面を見ていた。
僕は言葉を失った。なぜなら人々の目線の先には溺れている1人の人間がいたからだ。
しかし、誰一人として助けようとしない。それどころか無表情で人が溺れ行く様を見届けるかのようにただ見つめるだけだった。

次第に人は沈んで行く。海面からその人の手が姿を消そうとしていた。


僕の体は勝手に動いていた...海に飛び込み、沈んで行くその体を捕まえた。しかし、海面へ引き上げようとする度、強く体にしがみつかれこちらも身動きが取れなくなっていた。
あともう少しのところで這い上がれない、それどころか徐々に沈んで行く。パニックの中、海面の上から黙ってこちらを見ている人々の姿が見えた。
怒りや悲しみではなく絶望感が全身を走った。
「もう駄目だ」心の中で呟いた。
諦めに入っていた僕はその時初めて自分にしがみついている人間に目をやった。何故かそいつはニヤけながら僕の足にしがみついていた。とても不気味な顔をした女だった。
そして僕の体は余力を失いゆっくりと沈んで行った。


と、ここで僕は目を覚ました。
「夢か...」そう呟きながら時計を見ると朝の5時36分。Tシャツは汗で濡れ、鳥肌がおさまらない。
後味の悪い不気味な夢に呆然とその場に仰向けになっていると玄関のチャイムが鳴った。

こんな時間に人が訪ねてくる事なんて一度もなかったので不思議に思いながらもドアを開ける。
ドアチェーンをかけたまま開けたドアの隙間越しから 「先程はどうも。」とニヤけながら話しかけてきたのは夢の中で僕にしがみついてきた女だった。


全身に戦慄が走るのと同時に飛び起きる。
ここでやっとすべてが夢だったと気づく。
「勘弁してくれよ。」と苦笑いで呟きながら時計を見ると朝の5時36分。Tシャツは汗で濡れ、鳥肌がおさまらない。

呆然とその場に仰向けになっていると玄関のチャイムが鳴った。



Copyright © 2011 横山元 / 編集: 短編