第11期 #27

雲のトアコ

「雲になります」
 という書き置きを残して姉がいなくなったのは、一年前のことだ。そのとき姉は二十六歳になったばかりだった。僕は慌て、父も母も祖母も、姉の恋人の長沢さんも、大いに慌てた。
 長沢さんはうちの家族が姉をどこかに隠しているんじゃないかと疑い、母は長沢さんのせいで姉がいなくなったのではと疑い出して、二ヵ月後には長沢さんから音沙汰はなくなった。

 何年か前に、姉の書いた小説を見せてもらった。誰にも言わないでね、と念を押されて。
 トアコは、ごくごく普通の少女だった。バドミントンが得意で、本を読むことが好きだった。そんなトアコはある日、隣のおじいさんから自分が本当は雲になるはずだったのだと聞かされる。「くも?」「そう、空に浮かんでる雲だよ」トアコは雲の巣から生まれて、そのまま雲になるはずだったのに、その日はとても寒い日で、冷えて雨になって地上に落ちて、人間になってしまったという。「なんでそんなこと知ってるの?」「私もそうだからね」
 そしてトアコは雲の巣を探す旅に出た。今度はちゃんと暖かい日に、雲になって空に浮かぼう。だけど途中で気が付いた。雲になったら、バドミントンもできないし本も読めない。パパとママは、気付いてくれるだろうけど。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「どうしたらいいと思う?」
 姉が僕に聞いてきた。分かんない、と僕は答えた。

 ちょっと前に長沢さんに会った。
「姉さんは、どう?」
 まだ、と僕が答えると、「そっか。それじゃ、早く見つかるといいね」と長沢さんはすぐに去っていった。後ろから石でも投げつけてやろうかと思ったけど、もちろんそんなことはしない。

 天気がよくて、白く美しい雲がところどころ、浮かんでいた。姉が浮かぶのはきっと、こんな日だ。
 僕はうちわを持ってベランダに出た。かたちのいいひとつの雲に向かって、うちわを扇ぐ。
 すぐに疲れた。空に向かってうちわを扇ぐのは、けっこう大変だ。僕は扇風機を部屋から引っ張り出してきて、空に向けた。風速を強にして、しばらく待った。雲はゆっくりと流れるから、それにあわせてちょっとずつ傾きを変えて、ちょうど真上にさしかかってきたころ、頬に滴が落ちた。ぽつり、ぽつりといくつかの雨粒を落として、雲は流れていった。
 ああ、これは、姉の涙だ。
 そう思ったら急にばからしくなってきて、扇風機を止めた。濡れた顔を手で拭い、トアコのことを思った。



Copyright © 2003 川島ケイ / 編集: 短編