第108期 #11

ものがたり

 道端の古びた小さな辻堂に、真白い猫がするりと入って行く。動きを追った視線の先で、ぴんと伸びた尾の先が誘うように揺れ、消えた。
 男は思わずアクセルを緩め、視界の端を過ぎゆこうとする辻堂を目で追った。早朝、仕事場へと向かう道中のことである。今、あの猫を追いかけたなら──、考えがよぎる。追いかけたなら、小さな社と土壁のその狭い隙間の奥に、何かが待ち受けている。そんな非現実的なことを本気で考えたわけではない。わけではないが、一瞬の幻のような光景は、非日常への入り口に相応しい雰囲気をまとい、妙に心に残った。子供の頃に読んだものがたりでは、異界への扉は決まって日常の隙間にふいに現れるものだった。庭の兎穴、家壁と雪の庭塀の間、箪笥の奥の毛皮を潜り抜けたその先、幼心に憧れたいくつもの光景が脳裏に浮かぶ。その僅かな逡巡の間にも浅く踏んだままのアクセルで車は農道をのろのろと進み、すぐに辻堂は視界から流れ去った。男はひとつ首を振り、時計に目をやると、いつもの通り仕事場へと急ぐ。

 幾年か過ぎ、男はごくありふれた小さな出会いを経て家庭を築く。ある晩、男は幼い娘を寝かしつけるため、ふと思い出した辻堂の情景を拙いものがたりに仕立て、訥々と語り聞かせる。真白い尾に招かれるのは無論通勤中の男ではなく、辻堂の前をひとり散歩する幼い少女だ。父と子は同じ早朝の澄んだ空気の中で、それぞれの目線の高さから、道の端に立つ煤けた木造の社を、崩れかけた土壁を、その隙間に軽やかに歩を進める白猫を、見つめる。話の結末も聞かぬうちにとろとろと微睡みだした幼子は、揺れる尾を追いかけ躊躇いなく辻堂の隙間に滑りこんだ。

 こうして、ついに苦境の地神は幼い人の子の助けを得、誰にも知られぬまま消え行こうとしたものがひとつ、誰にも知られぬまま留められた。ひとつのものがたりが生まれる。
 幼いこどもは目覚めると、もう新しい一日に夢中で、男がその小さな冒険を知ることはない。



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