第104期 #4

青の男

 私のモノにしてしまいたい。不意にそう思った。
 何の変哲もない晴れやかな朝だった。少し空が青すぎた、ただそれだけの日だった。

 友達の電話を受けたのは深夜のことだ。彼氏に振られたらしい。彼の代名詞はろくでなしで、彼女が何故その男と付き合っているのか理解に苦しんだ。
 別れて良かったとさえ思った。
 しかし、彼女は大切な友達で、男は本当にどうしようもない奴だったので、それなりに腹も立った。一発、殴ってやろう。そう思ってからは早かった。
 アルマーニのスーツからジャージに着替え、髪も整えぬまま、何も持たずに家を飛び出した。明日は大事な会議があった気がしたが、そんなものはくそくらえだ。脇目も振らず、高級住宅街を駆け抜けた。空はうっすらと明るくなり始めていた。
「何、やってるんだろ」
 呟いたが、それも一瞬の逡巡。見栄も羞恥も仕事も捨てて走ったのだから、思考もどこかに落としてしまったのだろう。私は白く狭いアパートを目指し、ひたすらに走り続けた。金も名誉も愛も、何もない男の元へ。
 いつかの飲み会の帰りに一度立ち寄っただけだったが、迷わずたどり着けた。
 躊躇わずにチャイムを押した。
 ピンポン―
 間延びした、気の抜ける音がした。待っても待っても、誰も出てはこなかった。
 ドアに貼りつくようにもたれかかる。
「帰って、きて…」
 ぽつりと口から漏れた言葉に苦笑する。今日の第一声はあまりにもみじめで、それでいてどこか艶やかだった。
 切れていた息はもう整っていた。絶対に、このままでは帰らない。決意を新たにする。
 私の友人を傷付けた罪は重いのだ。哀れな男を蔑めば、何かが救われるような気がしていた。人気のないおんぼろアパートが軋む音と、私の呼吸の音だけが静かに響いていた。
 
 どのくらいそうしていたかは分からないが、やがて、
「そこ、俺んちなんだけど」
 男の声がした。甘いお酒の匂いと、柔らかな口調。私はソレを知っている。
「あんたを、待ってたのよ」
 そう言って振り返れば、予想通りの顔があった。どうしようもなくだらしなく、どうしようもなくろくでなしで、どうしようもなく会いたかった男。可哀そうな人。
「どうして俺なんかを?」
 彼が、いつものように青いシャツを羽織って笑っていた。
 私のモノにしてしまいたい。不意にそう思った。
「あんたを、殴りにきたのよ」
 そう言って抱きついた。
 その日は、空がやけに青かった。



Copyright © 2011 和泉翠 / 編集: 短編