第101期 #22

『三日月のはしご』

 月はどれだけ見とれても、お空にぽっかりと浮かんでいていっこうにおりてくる気配はないのでした。
 坊や、と呼ばれて振りかえると、姉が塒から顔をだしていました。もう遅いからお眠りと姉はあくびのような声でいいます。けれども坊やは眠くありません。今日は月の表面が七色にかがやいているのです。三日月のふちをなぞって、まばゆい閃きが弾けたり回ったりするのでした。
「姉ちゃん。今日は月がきれいだね。まるでもえているようだね。火花が落ちてこないかしら」
「だいじょうぶ。届きはしないよ」
「姉ちゃん。月のむこうには別の世界があるってほんとう」
「……ええ」
「どうして僕はむこうに行ってはいけないの」
「危ないからよ。父上も母上も、むこうに行ったまま戻らなくなってしまった。ここにいた方が安全なの」
「父ちゃんも母ちゃんも死んでしまったの」
「そうよ。だからくれぐれもむこうに行きたいなんていわないで」
 おなか減ったと坊やがいうと、姉は困った顔をして寝ましょうといいました。
 姉はいつもよりおおきく寝息をたてて眠りにつきました。
 昔々はしごをのぼって狩りに行くのが大人の使命だったと父に聞いたことがあります。塒を囲む壁のでこぼこは、確かにはしごの形に似ています。そこに手をかけていけば、きっと月の近くへ行けるでしょう。坊やは決めました。恐るおそる壁に手をついてのぼっていきます。姉に気付かれないように、息をひそめて。月はどんどん近づいてきました。火花は音をたてて、月の表面をはねています。
 坊やは月輪をくぐりました。目の前を熱い光が飛んでいきました。
「ハッピィニューイヤーッ」
 穴をはい出ると、そこら中に二本足の奇妙な生物が群れていて、そろって上空をあおいでいました。おおきな花火と、その背後に浮かぶまん丸の月。坊やは自分が住んでいたのが、地面につき出た円筒のなかであったことに気がつきました。坊やが見とれていた三日月は、円筒とそれをふさぐ石板とのわずかな隙間だったのです。
 足もとに二匹のカエルが寄りそいあって潰れています。そばを二本足がどたどた通りすぎていきます。坊やはふるえながらもけんめいに夜道をはねていきました。自分はもう充分大人になったのだと、頭のどこかで知っているからです。
「姉ちゃん、待っててね。えさ、探してくるからね」

 深い井戸のなか、一匹の雌ガエルが眠っていました。弟を思って流した涙を、冬の井戸水にさらして。



Copyright © 2011 吉川楡井 / 編集: 短編