第100期 #1

おそらく

 小学校の教室で僕の席は窓際最後尾だった。先生から一番遠くて、窓から校外の様子をうかがうこともできる席だった。皆が僕のポジショニングを羨んでいた。
 夏期休暇直前のある中休みに事件が発生した。
 沢田くんの筆箱が消えた。体育から戻ると筆箱が消えていたそうだ。
 沢田くんが顔を紅潮させて宣誓した。
「犯人はこの中にいる」
 五十歳の先生は沢田くんに近寄り、いさめた。沢田くんは涙を流しながら先生の手を振りはらった。
 先生という権力への冒涜を沢田くんが果たしたからだろうか、誰かが沢田くんを馬鹿呼ばわりした。沢田くんはその誰かにジャンプキックした。

 僕は他人から指図されるのが嫌いだった。世の中には相手からの命令に従順であること自体を喜びと感じる人もいて、そういう人間を見て、僕は彼らを否定ないし同情した。
 二十四歳の秋に中学時代から交際してきた可菜子と別れてひどく哀しかった。二人とも新社会人になっていた折、結婚なども考えていたことから、なんだか寸前で幸福を奪われた気持にもなっていた。こういうのがままならぬ人生の狡猾な遣口だと思うようにした。
 何が正解なんてことは皆目分からないし、この先も分からないんだろうが、とにかく僕は、とにかく僕の言うことをよく聞いてきてくれた可菜子を、命令に従順であること自体を喜びと感じる人間と位置付けて、大したことのない人間だと思うことにして、我慢した。

 夜に、これから書くメモは書いたそばからゴミ箱にすぐぽいすることに決めて、文章を書いた。
・担任教師へ
 お葬式に出られなくて申し訳ありませんでした。
・沢田くんへ
 小学生の時、可菜子に沢田くんの筆箱を盗めと命令したのは僕でした。
・ジャンプキックされた人へ
 結婚おめでとう。
・可菜子へ
 愛していたよ。たぶん。あなたの十年間をありがとう。

 お金さえ払えば不満を聞いてくれる人は世界中にたくさんいる。王子のスナック、働きはじめたばかりという二十歳の美容師専門学校生に可菜子との別れ話をしこたました。
 二十歳は、女なら誰でもそうなのかもしれないが、戸惑いながら初対面の僕に同情してくれた。僕は急に恥ずかしくなり矢継ぎ早に二十歳に質問した。出身は? 趣味は? 彼氏は?
「可菜子さんの代わりは無理ですよ」
「そうだね」
 僕は、何を考えているか分らない人間になりたくて、へらへらと笑った。
 二十歳は笑わなかった。たぶん彼女はこの仕事に向かない。



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