第10期 #1
鉄の階段を二階へ登り、突き当たったところにドアがある。中年男がひとり、そのドアを連打しながら、大声を上げていた。古い木造アパートの建物全体が揺れるような勢いだが、時間帯のせいか、なにごとかと気にかける住人もいない。
しばらくするとドアが開き、内側から異様にやつれた青年の顔が覗いた。何の用ですか、と問う声にも力がない。
中年男は強引にドアの中に押し入った。夕日が窓から差して、部屋全体を赤く染めている。一間しかない狭い部屋だが、二三の家具が置いてあるだけで、恐ろしく殺風景だった。
「妻を返せ、妻はどこにいる。今度こそはお前と別れると約束して、ここへ来たはずだ。それなのに、いつまでも出てこないのはどういうことだ」
中年男は青年に掴みかかるような勢いで叫んだ。青年は顔を歪めるだけだった。
「私を裏切った妻を許すわけにはいかないが、もっとも許せないのは、妻をたぶらかしたお前だ。そこをどけろ」
「ご主人」と、青年がやっと口を開いた。
「お気持ちはわかりますが、僕たちはあれから一度も逢っていません」
「嘘をつくな。この部屋に妻が入ったのは間違いない。出て来い! これ以上私を騙そうとするなら、首を締め上げてやる」
言いながら、男は狭い部屋の中を見渡した。勝手に襖を開けたり、トイレを覗き込んだりしたが、人が隠れる場所はまったく見当たらない。
窓の外は小さなベランダがあって、物干し棹が渡してある。幾つかの洗濯物が干したままだったが、まさかそこから逃げたようには思えなかった。ずっと、この下で待っていたのだ。たったこれだけの空間と時間のあいだで、人間ひとりが消えるなんてことはありえない。
が、結局男は妻を見つけることができなかった。
「気が済みましたか」
仕方なく部屋を出て行く後ろから、青年の皮肉な声が聞こえてきた。男は歯軋りしながら、アパートを出た。
すでに夕闇が迫っている。古いアパートの周りを包む木々がざわざわと鳴って、生ぬるい風が男の頬を撫でた。
ふと、さっきの部屋のあたりを見上げると、例の青年が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。大きなコートを抱えるようにしてロープを解き、重そうに降ろした。
ここで妻を待っていたとき、あそこにコートは吊るしてなかったはずだ。
まさか…。
いや、もうどうでもよい。どちらにせよ罰が当たったのだ。
男はすでにこの時、妻と再び会えない事に苦痛を感じなくなっていた。