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2012年10月8日 15時58分0秒

おとなの(なゆら)
 安定してるなーと思う。センスを味わうのは愉しいし、羨ましい。
 でも“たらふく食ったのだ。”で終わらすあたりに都合よさがあって読み砕けば砕くほどに居心地悪くなる。右脳は悦んでいるけど、左脳は鼻くそほじってるような感じ。これで「右脳に任せるよ」って言わせれば大したものだけど「これじゃああんまりだ」って左脳は言っている。


十五歳の魔法(qbc)
 物語としてデキていることと、テーマ、あるいは人物が描けていることってどうしても別個に、異相に、考えてしまうんだけどこの話はそんな表裏のバランスがいいので読めるし満足はする。美味と栄養価を交えて、馳走となるわけで。
 均衡を崩しているような気がするのは、点描の尖り具合で、この場合の点ってのはどこのどんな文脈にどんな語句を置くのかってことをたった今なんとなくそう名付けたに過ぎないのだけど、そんなような趣きの死が感じられただけ。
 これ例えば、“魔法の効用を詳説した。”なんて文章は古風でそぐわないなんてことを言っているわけではなくて、

“少年は帰宅したい旨を姉に告げた。姉は抵抗した。(           )この魔法は、細密画のように複雑怪奇な心を一年生で習う漢字のように単純なものに解きほぐしてくれる。”

っていう文脈に埋もれたときに果たしてくだんのセンテンスが息をしているかどうかってことで、息をしているって表現は生きているって置き換えてもいいけど、この場合、生き生きしている必要はないし、蚊が屁をこくようにか細くてもいいから呼吸をしていると感じたい(と信じたい)からだ。
 もっと肩から力を抜いて、トーク番組や井戸端会議のような【話法】【筆致】で伝えてもいいだろうけど、それでもこの物語にはこの風味がってのは作者として命を懸けて当然だと思うし、俺もそうやって生きているので莫迦にはできない。
 そんな俺がよく陥る地獄は、せっかく紡いだ文章が化石のように語呂語呂と否、ごろごろと転がる音を聴く落石地獄が多くて、磨き削られて光り始めるならともかくよりにもよって石くれだったりすると発狂してしまう。燕石かどうか怪しまずして、それに似た音が本作からも聞こえた。もう聴きたくない音楽。


もしも娘が生まれたら(朝飯抜太郎)
 とある人の“娘”をもらった身としてはどうにも雑念を振り払うことができなくて、こんな内省的に五月蠅い“義父”は厭だなと思う反面、微笑ましいなとも思う、いち読者―――赤の他人としては、ね。
 小奇麗では笑えないけど、不細工だと笑える場合もある。不細工だから不幸なのだって生理的にどうしようもない苦悩を論理的にやけくそ的に覆す、人情で落とされるのも好印象ではあるんだけど、俺は毒されちゃって小奇麗な顔を傷つけることしか浮かばない。そっちの方が不幸だって気がついてはいるけれど、どうしても美顔が崩壊していく一途に、美顔とは別の、端整とは別の、美しさを感じているからどうしようもない。だから小説を書いている。
 そんな肉眼で視ると赤の他人の表情なんて絶好のキャンバスであり、本作の顔を支離滅裂なスカーフェイスにしたいなんて思いが浮かぶ。そんな後で『もしも娘が生まれたら』なんてタイトルに、四畳半の汗臭い、自宅警備員の妄執、決して美辞麗句では補えない底知れぬ悪意や愚鈍な寄生虫のうごめきさえ感じてしまって、玩ばれた感に恍惚としてしまうけど、それは過度な期待だと、かぶりを振る自分。素直に屈してもいいけれど、今日は懐疑を選びたい気分なので。

どれも良いし善いんだけど、ニュアンスとしては佳いにはならない感じ。したがってどれが好いという話にはならないわけで、今回は なし で。(楡井)

参照用リンク: #date20121008-155800


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