第82期 #10

Devil

「義兄さんには、よく殴られたもんだよ」
「何も、こんなところで言わなくても……」
 妻は険しい表情で僕をたしなめた。義兄が自動車事故で亡くなったのは一昨日であった。すでに両親も亡くしている妻にとっては唯一の肉親だったのだから、その悲しみは計り知れない。
「運行前点検は、必ずするように言っておいたのに……」
 告別式はしめやかに営まれていた。義兄の事故は整備不良が原因だ。そういえば妻の両親も同じように整備不良が原因による事故で他界している。子供の頃から面倒臭いことが嫌いだった義兄は、車の整備もディーラー任せだったのだろう。
 僕と、妻の家族は元々近所に住んでいた。妻と義兄とは幼馴染みだったのだが、遊んだといっても義兄に命令されたことをクリアしなければ、鉄拳制裁が待っているといった類の虐めに近いものであった。僕が引越してからは疎遠になっていたのだけれど、妻とは大学で偶然に再会して今日に至っている。

「海なんて久しぶりね」
 僕は気分転換に妻を外に連れ出した。
「ここ憶えてるかい?」
「うん。プロポーズされたのってここでしょ。まさかあなたと結婚するなんて思ってなかったわ」
 妻は展望台のベンチに座り、懐かしそうに顔を綻ばせた。
「僕は最初からそのつもりだったけどね……。あの日、学食で君に会ったときに決めたんだ。仕返ししてやるって」
「えっ……!?」
 妻の表情がだんだんと硬くなっていくのがわかった。
「僕が義兄さんに殴られてるとき、義兄さんに蹴られてるときに君はどうしていたか憶えてるかい? 君は笑っていたんだ。一度も止めやしなかった」
「私だって兄さんが怖かったのよ。仕方なかったの……」
 妻の瞳からは大粒の涙が滴り落ちた。
「そんな君が悲しむ姿を見るのが快感でね。だから義父さん、義母さん、そして義兄さんも……。乗る前に点検さえしておけばこうはならなかったけどさ」
「あ、あなたがやったの!? ひ、酷いわ……」
 妻は泣き崩れた。
 僕は勝ち誇ったように立ち上がり海を見上げた。あの時の恨みを晴らすときがやってきた。これから妻をも手にかけようとしていたのだ。そのとき、
「この悪魔!」
 一瞬の出来事であった。
 妻の甲高い声が聞こえたと同時に、僕は断崖から身を投げ出されていたのだ。

 ――あぁぁぁぁ!!
 目の前には鋭く尖った岩肌が迫ってきていた。



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