第55期 #33
机と壁の隙間から1匹の蜘蛛が這い出した。
彼はそれを驚きもせず、ただ見ていた。
蜘蛛は美しかった。
細くスラリと伸びた長い足は、少女の腕のように脆く儚く、わずかな力でその繊細さは失われてしまいそうであった。
不規則に並んだ幾つかの目は、夜空の星のように貴く輝いているようにも見えた。
蜘蛛は部屋の隅に静かに巣を作り始めた。
彼は体を部屋の隅に向き変えて座った。
蜘蛛はその美しいフォルムから白く輝く直線を出し、規則正しい幾何学模様を描いていく。
彼は何をするでもなくそれを見ていた。
静かな二人だけの空間がその部屋にはあった。
巣がほぼ出来上がった頃、彼はおもむろに立ち上がり巣の下に移動した。
手をかざすと蜘蛛はそれに合わせて移動しているように思えた。
彼はシャボン玉を捕まえるときのように優しく手を動かした。
蜘蛛はただわがままに巣を作り続けていただけかもしれないが、彼はその美しさを弄んでいるような錯覚に陥ることができたのだ。
突然、蜘蛛はバランスを崩し、ほどなく彼のてのひらへ落ちてきた。
音もなく。
それまで穏やかさを失うことのなかった彼の心臓が初めて高鳴った。
軽かったのだ。
何も感じられぬほどに。
あれほど彼の心を占領していた美しく巨大な存在が、彼の手を通じては何も伝えてくれないのだ。
ともあれ、あの繊細で壊れやすい美は、今まさに彼の手に委ねられているのだ!
彼は緊張しなくてはならなかった。
蜘蛛は美しいがゆえに、ほんの小さな動作でつぶれてしまうだろう。
彼は細心の注意を払い、手をそのままの形で保とうとした。
ああ、その間に逃げていってくれればよかったのだ。
蜘蛛はまた微動だにしなかった。
彼の手がむずがゆく動いた。
ゆっくりと手は閉じられていく。
蜘蛛は次第に暗くなる手の中で動かずにいた。
その速さを増すこともなくゆっくりと手は握られた。
もはや彼の目に蜘蛛の姿はなく、ただ弱弱しいこぶしが映るだけであった。
手からは何も感じられない。
何も感じられないが、そこでは1つの美が失われているのだろう。
ふと顔を上げると、それまで彼らと囲んでいた壁や天井は存在せず、白でも黒でもない地面が無限に広がっているだけであった。
やがてその地面も感じられなくなっていくのがわかった。
ああ、何もないというのはこういうことかと彼は思った。
すぐにこの思いも失われるのだ。