第272期 #1
喉に違和感を覚え、口数が減ってしまった。魚の骨が絡まったらしい。
数ヶ月前の週末、恋人が訪れた。彼は料理に手をつけず、何か考えているようだった。さばの塩焼き、若芽ときゅうり酢の物、玄米、しじみのお味噌汁、献立や食卓の匂いは精彩に蘇るのに会話を思い出せない。
喉の圧迫感は日増しに強くなる。小骨が進化し魚に成長したに違いない。住みつき、食道と気道が水槽のように使っている。魚は何十匹と増え、血液に乗って体内を回遊しているようだ。
医師は笑みを浮かべた。
「咽喉頭異常感症ですね。ストレスが考えられます、念のためお薬を出しますね」
戸惑いながらも反論しようとする。魚がいるのです。喉の重みで言葉が出ない。
病院内の喫茶店に入る。窓越しに見える外は炎天下でコンクリートがゆらいでいる。老婆と幼女が窓際の席を選んでいる。コーヒーにミルクと砂糖を入れ、スプーンで回すと液体の対流が出来る。クリムトの「女三世代」をふと思い浮かべた。柔らかな曲線と華やかな色使いが、母と子、老人の織りなす人生の流れを描いている。
あの人は絵が好きだった。深紅の絨毯を歩き、作品を鑑賞し、疲れたらソファに腰掛け、物憂げな表情でプログラムを辿っていた。あの指先はどこに向かったのだろう。
「話があるんだ」
沈黙の後、彼は静かに言った。揺らぎのない小さいけれど、よく通る声だった。魚が暴れだす。心臓が締め付けられ、私は息を飲む。記憶の断片に投げ出された魚は、体内を逆流し暴れ出す。焼きついた光景がよぎる。あの指はドアノブに手をかけていた。大きな背を向けたまま、ドアが閉まる音がリフレインされる。
窓際にいた筈の幼女が心配そうに私を覗きこんでいた。
「おねえちゃん、大丈夫?」
幼女の頬や手は瑞々しく、髪やまつ毛は濡れたように光っている。私は知らないうちに泣いていた。老婆が駆け寄って幼女を抱きかかえた。その手は、骨と皮膚の間に浮き上がる血管が見えていたが、生きてきた確かさが感じられた。老婆は幼女を穏やかに制し、私に会釈した。彼女達は私の過去と未来だ。
私は生命の流れに乗っているのだろうか。気づくと、雨が激しく窓を打っている。急などりゃぶりだった。窓の外に立ち並ぶの高層ビルは、入り組んだ木々の群集に見えた。スコールが乾いた大地や砂漠に浸透してゆくように私の体内にも降り注ぎ流れる。魚は体内を遊泳し、やがて大河を泳ぎ雨と共に消えていった。